思い出の街角 小学校の踏切 鹿島小学校側から見た踏切。 それまであった鹿島小学校横の踏切に『椀木式遮断機』が設置されたのは、昭和38年10月のことだという。 夕張市で二番目にできた踏切だったという。 昭和44年にできた歩道橋はまだできていない頃のようだ。 学校に通った道としては、栄町、富士見町方面は北… 続きを読む
思い出の街角 千年町界隈 戦没者慰霊碑 千年町駅から錦町にかけての山側にあった寺院街の一角。 慰霊碑の向こうに大聖寺が見える。 このあたり、春には桜が綺麗に咲き、花見の人々も多かったという。 平成になり、大夕張が閉ざされることになった時も、お盆には戦争で亡くなった人たちの家族が各地から参拝に訪れ、碑の前で手を合わせる人々の姿が多く見られた… 続きを読む
思い出の街角 高校への坂道 夕張東高校閉校記念誌『岳窓』(昭和58年閉校)より昭和57年(1982年)12月撮影とある。 写真のタイトルには、『バス通りから校舎を眺む』とある。 この写真では写っているかどうかはっきりしないが、目線の先の高台には白い高校校舎が見えていたことだろう。 鉄道跡はサイクリングロードとなり、… 続きを読む
思い出の街角 駅前 鹿島警察官派出所 前回の『昭和45年頃 鹿島警察官派出所』は北側から撮影された写真だが、こちらは、南側、消防署の向かいからとられたもの。 広報用の掲示板の隣には、当時夕張市本町にあった『桑島整形外科医院』の広告看板が立つ。 拡大してみて思い出したことがあった。 1階南側の部屋の内側に鉄格子のようなものが見える… 続きを読む
思い出の街角 昭和45年頃 鹿島警察官派出所 聞くところによると、派出所と交番は同じ意味なんだそうだ。 今の、『派出所=交番』から想起する建物には似つかわしくない大きな建物。 昭和28年以降、夕張警察署の分署、警部派出所だった頃の時代に建てられた建物なのだろう。 所轄(鹿島・南部)の人口2万人以上だった当時、駅前に並んで建っていた消防と共に… 続きを読む
思い出の街角 鹿島運動公園 昭和45年 栄町児童会館隣の公園。 遊具施設の整備工事。 栄町2丁目と3丁目の間の通りから撮影した写真でしょう。 小学校6年生の頃、この通りを何度も通っていた。 富士見町に住んでいた自分が、なぜこの道を通ったのか理由ははっきり思い出せないが、たぶん次の様なことだろうと思う。 その頃、6年竹組は… 続きを読む
思い出の街角 大夕張営林署 昭和40年代 錦町。 鹿島中学3年の頃、転校してきた子と仲良くなった。親が営林署勤めだった。 彼の官舎は、錦町の購買会の角から天理教会に向かう坂の中程にあった。 線路から山に向かって並ぶ住宅が段々に高くなっていく。 家の前でキャッチボールをしたことがあった。 どちかが山側で、一方が下になる。 下… 続きを読む
思い出の街角 明石町駅 昭和40年頃、明石町駅駅舎 高橋さんが、『続大夕張つれづれ#105 明石町駅の待合室』でこの写真を見て次のように書いた。 写真の左右にある立木はポプラである。 右側のポプラのある場所には花壇があり、ヒマワリやスミレなどが植えられていた。 私は動植物には興味がないせいか、他の花についてはあまり記憶にな… 続きを読む
思い出の街角 桜ヶ丘神社 『シューパロ塾郷土誌研究調査報告(H14)』によると、この写真も、桜ヶ丘小学校小野寺利秋氏所有していた写真。 桜ヶ丘の農作物は、カボチャ、トウキビ、大根、豆類が多かったという。 桜ヶ丘での暮らしは、生活用品などの買い物には、南部や大夕張まで行った。 開墾当初(昭和23年頃)沢水を使い、ランプ… 続きを読む
思い出の街角 旧農場付近 開墾伐採のあとか、このあたりの湖底一帯は、多くの木の切り株が散在していた。 湖畔亭の下、大夕張ダム湖の湖底は、かつて農場(第2農場)といわれた。対岸が桜ヶ丘方面。 戦後炭鉱の人口増により大夕張にも町外れの畑地にも町ができた。 第一農場にも炭鉱住宅が建設されて、明石町となった。それによ… 続きを読む
思い出の街角 富士見町3丁目33番地 その2 昭和43年鹿島小学校を卒業して中学校に入った、その年の5月頃だろう。 後ろには、富士見町の独身寮『啓心寮』 土手下のテニスコートや空き地は、『遊び場』だった。 富士見町3丁目33番、それまで木造の住宅から引っ越し、大夕張で最後に住んだブロック住宅。 家の中は、ペチカがありトイレは和式水… 続きを読む
思い出の街角 夕張市立図書館鹿島分館 宝町にあった鹿島図書館。 写真の右下には、当時通勤や仕事で使われていた二輪のオートバイが停まっている。 この建物は、昭和35年に新築以降の建物で、自分が利用したのもこの建物。 本通りから宝町の図書館に向かって入って行くと住宅と図書館の間は、かつての住宅の跡地なのか、写真のように空き地… 続きを読む
思い出の街角 林鉄 新線と旧線の跡 大夕張鉄道に乗って車窓を眺めているのが好きだった。ぼんやりしていた少年は、何も考えずただ流れていく景色を眺め、過ぎていく時間に身をまかせているのが好きだった。 明石町駅を過ぎて、開拓(白金)方面に向かう白銀橋が過ぎると、シューパロ湖の対岸に森林鉄道の赤い鉄橋がいくつか見えていた。 中で… 続きを読む
思い出の街角 富士見町3丁目33番地 昭和44年(1969年)6月の山神祭。 住所は、富士見町3丁目33番地。 当時住んでいたアパートの前。啓心寮の裏手の土手の上にあった。 後ろに見える窪地は、啓心寮の炊事場の裏手にあたる。 今ではあまり見なくなったご近所さん同士の四方山話。 なつかしいご婦人達の顔ぶれの中に母もいる… 続きを読む
思い出の街角 下夕張森林鉄道 夕張岳線 (桜ヶ丘) 正面には雲にかかってはいるが夕張岳。 その夕張岳に向かって伸びる軌道。 撮影は、おそらく昭和30年代。 南大夕張を起点として下夕張森林鉄道は、昭和14年(1939年)に着工され、昭和20年(1945年)までに16.8kmが竣工した。 夕張岳線は、二股(後の大夕張ダム付近)で下夕張線と分… 続きを読む
思い出の街角 昭和48年 栄町商店街 時々、ホームセンターに行くと、ペット売り場の前で足がとまる。今は生き物は飼っていないが、中学生の頃家で金魚を飼っていた。 大夕張では、伊藤玩具店で扱っていたように思う。 店頭では、「和金」と「デメキン」くらいしかいなかったと思うが、それでも水槽を眺めていたり、お小遣いで買う金魚を選ぶ時間が楽し… 続きを読む
思い出の街角 昭和40年代 大夕張駅前 昭和45年(1970年)頃の大夕張駅前。 駅前広場から駅前の商店街を見る風景。 大夕張郵便局の前には、クリーム色のボディと赤い屋根から『丹頂形』と呼ばれた公衆電話ボックスが見られる。 昭和29年(1954年)頃から、日本全国に登場したものだというが、大夕張で見るようになったのは閉山前後のことではなか… 続きを読む
思い出の街角 富士見町6丁目の記憶 昭和40年(1965年)頃 富士見町 私が富士見町6丁目に住んでいたのは小学校入学前あたりから,小学校3年生の頃まで。 鹿島小学校から帰る時は、校門を出て大夕張鉄道沿いの道を歩き、そこから山の方の坂道を上った。 反対に、鹿島小学校に行くには、そこから4丁目のあたりまで坂道になっていた。鉱… 続きを読む
思い出の街角 昭和48年 栄町商店街 TV番組の中で資料映像として流れたフィルムから、退色を補い彩色をほどこしてみた。 この頃、「メガネの福川」の看板の向こう、伊藤玩具店のあとできた「パチンコ」店、その隣にはよく見えないが、Cokeの赤いロゴと雀球平和の看板。ここは昭和43年の住宅地図では志村菓子店だった店。 そしてその隣の本間… 続きを読む
思い出の街角 桜荘の庭 千年町の鹿島東小学校のグラウンドを見下ろす場所に、桜荘、青葉荘が建っていた。 ここは、桜荘の庭。 小さな池に向かって一心に遊んでいる一人の少女。 その向こう、遠くに見えるおばさんのいる道路を下っていくと、東小学校だった。 中学校行のバスも走った、舗装の途切れたあたりの道路。 道… 続きを読む