思い出ばなし 百人一首 |石原賢治 定番の『全国共通かるた』ですが、九州出身のわが家にあったものは、読み札に、公家だの、姫様だの、坊主などの作者の絵がかかれていまして、『坊主めくり』などという、お坊さんには大変失礼な遊びをしていました。 裏にした読み札を、順番に1枚ずつめくり、坊さんを引くとそれまで貯めた札を出し、お姫様が出るとそ… 続きを読む
思い出ばなし 私の断片的記憶|たいこのもりお 時々、大夕張の事を思い出します。 はっきりとした事や、断片的な事や、曖昧だったりですが、投稿させていただきます。 昭和30年代の半ば、鹿島小学校のグランドにサーカスが来て、バイクの曲乗りをした。 冬はグランドに雪像がたくさんあった。 緑町の2丁目に、八木さんという床屋さんがあって、そ… 続きを読む
続・大夕張つれづれ むろ( 室 )|高橋正朝 #25 我々の年代が、大夕張に住んでいた少年時代は、厳寒期になると野菜が不足した。 ちょうど、今ごろの時期てすネ。 しかし、栄養失調の話は聞いたことはなかった。 実際は、栄養失調に陥った人はいたかもしれないが、子どもだったがため、単に、社会のできごとを知らずに過ごしたのかもしれないが ••••••。 … 続きを読む
思い出ばなし 牛乳配達のアルバイト|花田勝則 堀田牛乳では、小学生の頃、何年か牛乳配達のアルバイトをしていました。 夏場はリヤカーで、あるいは自転車で、冬場はそりに乗せて、配達してました。 冬場は、明け方3時・4時の配達で、牛乳が凍らない内に配達しなければなりません。 一度に沢山積んで出発出来ないので、何度か堀田牛乳店に戻っ… 続きを読む
食憶 食憶(その5 木箱の中身)|長谷川潤一 大夕張の暮れは、すっぽりと雪の冬でした。 この時期ならではな物を、ちょっこといきたいと思います。 まず「リンゴ」。 幌掛けのチェーンを撒いた小型トラックに拡声器がちょこんと載っかっていて、「青森から来たさ」という眼鏡のおじさんが、お国訛りで売って歩いてました。 あの長方形の板作りのリンゴ箱… 続きを読む
思い出の記 夕張そして札幌へ|Kawauchi Masami 昭和29年6月2日、 父 河内正雄 、母 君江 の三男です。 氏名 河内正三(まさみ)、 南清水沢で、産ぶ声をあげます。 父は、大夕張鉱業所に働いていましたが、住宅が当たらない為、寮に入っていたと聞きました。 私が2歳の時、緑町に住宅が当たり、そこから18歳までの大夕張生活でした。 18歳… 続きを読む
食憶 食憶(その4 小学校の給食)|長谷川潤一 斎藤さんのところで鹿島小学校の解体の写真は、みんなショックだったという話になり、鼓笛隊などの思い出話をしました。小学校にちなみ、給食の話しなどを。 ちょうど私どもが入学の折りに給食は始まりました。 一年生から給食を食べたというのは、私どもからということらしいです。当然今と違って自校式ですからし… 続きを読む
食憶 食憶(その3 「へ」の字)|長谷川潤一 初雪、初氷、夕張岳にも白い雪が・・という時期になると思い出すものは何か? そうです、漬け物です! 紅葉が進むと、あちこちの長屋の壁や洗濯物の物干し竿に、ずらーっと掛かっていたダイコンです。 縄で一本ずつ丁寧に縛られて、長屋の間にユラユラ、ブーラブラと山間の早い西日の中で揺れていました。 そ… 続きを読む
食憶 食憶(その2 食堂のお話)|長谷川潤一 一回目の投稿からだいぶ間が延びました、のびついでの話でラーメン話を。 当然のこと、池田屋さんは幅広いメニューでメジャーでした。 思い出すのは、薄口色のスープのラーメン、ゆで卵などを抜いた「かけラーメン」、値段を抑えた「学生ラーメン」。 そして永遠に忘れられない味なのが、たこ頭型の銅板焼き饅頭… 続きを読む
続・大夕張つれづれ 木の摩擦熱で火を熾す試み | 高橋正朝 #24 前回#23で、鹿島東小学校時代、レンズの焦点で、紙に火をつける試みを書き込んだら、それに対する飯田さんのコメントだと、やはり大夕張の少年時代、同じことをやっていたんですね。 この、虫眼鏡のレンズの焦点で紙に火をつける試みは、他の少年たちもやっていました。 しかし、どういうわ けか、近所や… 続きを読む
食憶 食憶(エピソード1)|長谷川潤一 先日、ちょっと息子の夏休みに同調して、家族で釧路方面に行ってきました。 和商市場で、鮭やイクラなどを買い込み、帰りの車の中で筋子にまつわる話をしました。 それは、採炭で先山をやっていた父のお弁当のおかずのことです。 父が現場に持っていく弁当のおかずの定番に、筋子がありました。 毎月14日の… 続きを読む
思い出の記 湯浅純治先生のこと |Kawauchi Masami 湯浅先生との出会い 鹿島小学校で、湯浅先生を初めて見たのは 3年生から4年生のクラス替えの時です。 私は1・2・3年生の3年間、女の佐藤良子先生でした。 その年、私は4年桜組で、校舎は、新校舎3階建ての1番下の一階でした。 職員室は2階か3階でした。私達は、玄関の横のクラスでした。私達は入り… 続きを読む
随想 鹿島小学校の応援歌|内川准一 以前から思っていた応援歌の疑問が解けました。 鹿島小学校の応援歌は二つあります。 昭和36年の文集 「松風」 を見ますと、「運動会が6月4日に決まった。」とあり、続けてクラス担任が、 「歌詞が難しすぎて、意味が分からず、練習が前に進まない。」 と嘆いているのが笑えます。 以下はその応援歌… 続きを読む
思い出の記 大夕張のバンドブーム | Kawauchi Masami うたた寝をしていると、ラジオから長渕剛の『乾杯』が流れてきました、1980年の曲です。 私は、1977年結婚したので、『乾杯』の詩が、なんか重なるような、気がします。 大夕張で知り合い、南部で大きな舞台に立ち、2人で歩き始めた道。色々な事がありました。ほんと、色んな事あったな〜。 協和会館別… 続きを読む
続・大夕張つれづれ 雪の結晶と雪印のロゴマーク |高橋正朝 #23 大夕張で生まれ育った人だけでなく、北海道生まれの人にとっては、雪印乳業のロゴマークには懐かしさを感じると思う。 北海道生まれの大企業だから、ということよりも、雪の結晶に懐かしさを感じるのだ。 北海道生まれの企業ではあるが、本社は東京四谷にあり、東京在住者は知っていることだが、夜間、中央線… 続きを読む
思い出の記 奥鹿島の『三時間耐久レース』|Kawauchi Masami 昭和56~59年(1981~85年)頃、明石町から開拓の奥、農家を辞めた地主さんに土地を、ただで借り、自分達でコースを作って、50ccバイクで『三時間耐久レース』をしました。 場所は奥鹿島分校からあと、橋を渡って500mぐらいの所です。 地主さんの名前は忘れましたが、「元は南部の下夕に開拓で入っ… 続きを読む
続・大夕張つれづれ 吹雪のなかでの登校下校 |高橋正朝 #22 私が、鹿島東小学校の低学年だったころの大夕張の冬は、ずいぶんと寒かった。 私の年代の人は、皆、経験していたことで、『 ふるさと大夕張 』に書き込んだことの繰り返しになるが、頬骨に染み込むような寒さのときは、薄眼にし、眼を普通に開けようとすると、瞬間的にくっついていたまつ毛がパチッ、という感… 続きを読む
思い出の記 坑内にかかる盤圧 | Kawauchi Masami 大夕張の坑道 今日は 坑内でないと 分からない 出来事 書いてみますね。 写真に写っているのは、採炭現場で天盤を押さえるカッペと言う道具です。 丸いピンと平べったいピンの、2本のピンで止めて行きます。払い(採炭現場)が進むと、後ろのカッペを外して、前に付け替えます。丸いピンだけなら、『お辞儀… 続きを読む
随想 1978年・大夕張・再会 |斎藤敏幸 私は、閉山の前年に当たる1972年3月に夕張東高を卒業しました。 閉山後両親は、函館に居を構えました。 そのためか、大夕張に帰る機会もなく数年が過ぎてしまいました。 大夕張と再会できたのは、1978年の7月でした。 当時私は、釧路に住んでいましたが、職場の研修で札幌に出た時、帰ることができ… 続きを読む
続・大夕張つれづれ 村山貢 先生の色彩の授業 |高橋正朝 #21 前回、「 電光オズマ 」の稿で、コラージュのことに触れ、村山貢 先生のお名前を出しました。 それで、村山 先生の授業のことを書き始めたら、表題とは無関係な内容の文章が長くなってきたので、その部分は打ち切り、次回、即ち、ここで書くことにしました。 村山貢 先生を初めて見たのは、鹿島… 続きを読む