思い出ばなし 窓から見えたスキー場 | 堀田牛乳長男 富士見町のスキー場、4年前に滑りました。(1998年頃) 小学生時代にスキー部で活動していたときは、有志がシーズン前に笹がりをしていたので雪付きが良くて良いゲレンデでしたが、4年前に滑ったときには、笹の上に乗った雪が滑ってしまい、ロープ小屋の上部は地割れのようになっていて結構怖かったですよ。 … 続きを読む
楽しかった日々 屋根の上のスキー 家を埋め尽くすほどの雪が降った夜。 次の日、屋根の上には新雪が積る。 地面に積った雪と屋根からなだれ落ちた雪がつながってしまう・・・。 晴れた日には、そこは子どものスキー場と化す。 昭和35年(1960年)頃、場所不明。 白黒写真に着色した画像 https://ooy… 続きを読む
思い出の街角 礦業所のスキー大会 ノルディックのスキー大会。 礦業所の職員慰安行事の一つだったのだろう。様々な行事が行なわれていたスポーツ大会の一つ。 スキー場前の富士見町1丁目の山側の道路をゼッケンをつけた参加者が鹿島小学校グラウンドの方向に進む。 どんなコースだったのだろうか。 昭和40年頃と思われる。 白黒写真… 続きを読む
楽しかった日々 山スキー 栃木で生れ東京で薬学を学び、戦後三菱鉱業の大夕張炭砿病院に就職した父は、北海道に単身渡った。 富士見町の啓心寮に入った父は同じ、独身の寮の仲間たちと、時には病院の若い看護婦さん達を誘って、夏は野球、冬はスキーと、大夕張での独身生活を楽しんでいたという。 そんな父の、おそらく八百五十でのスキーでの… 続きを読む
随想 夜間スキー |前田三郎 大夕張のスキー場の思い出と言えば、なんと言っても夜間スキーでした。 水銀灯の明かりの下で滑りましたねー。 上手くもないのに・・・?? でも、夜 水銀灯の下で滑ると、上手く見えるから不思議だよな。 滑ってる人は見えないけど、きれいな弧をえがくシュプールだけが見えるんだよな。 … 続きを読む
思い出の記 冬の出来事 |Kawauchi Masami 私には忘れられない思い出が2つ有ります。 小学校2年生の時、富士見町のスキー場で遊んでいて身体がだるくなり、いつもの様に、スキーを担いで春日町の自宅へ帰る時、スキーが重くて、カンダハンの金具を両手で持って引きずって歩いていました。 家だと思い、家まで着いて倒れていたそうです。 … 続きを読む
楽しかった日々 長いスキーを担いで出発 昭和40年代の大夕張を、8ミリフィルムで撮影したテープをもとに編集された『遥かなる思い出の故郷』の中に、スキーをかついだ子どもたちが、炭鉱住宅の中を歩いていくシーンがある。 家の前にスキーを立てかけたスキー、自分の背の丈を超えた長尺のスキーをかついで歩いていく子どもたちの姿。 長いスキー… 続きを読む
思い出ばなし むかし話 スキー場 山小屋風食堂 | 泊川俊徳 昭和38年以前、大夕張のスキー場に、 リフトロープ上がり付近に、スキーの季節だけラーメンやうどんを食べられる山小屋風の食堂が有りました。 冬、これと言う娯楽のない大夕張。 冬はスキーくらいしかなく、朝から夕方まで滑り、昼はこの食堂で、あたたかいラーメン、うどんでした。 まだ、かけラ… 続きを読む
思い出の街角 八百五十のゲレンデ 昭和30年 八百五十のゲレンデ。 白黒写真に着色した画像 八百五十 【小笠原 憲】 1998年02月27日(金)16時47分10秒 お久しぶりです。 遠い昔の記憶によると(昭和35,6年)、八百五十は鹿島小の横の沢をどんどん登っていって、更に山に登って・・というようなところでした。 鹿島小の冬… 続きを読む
思い出ばなし 祖父の勇姿 | 勝又優子・桃子 祖父は昭和37年まで大夕張常盤町に住んでおり、当時ジャンプの選手として活躍していたとの話です。 大夕張代表として、4山対抗大会に出場し、少年組で優勝したとの事です。 画像が新聞の切り抜きのため鮮明ではありませんが、当時のジャンプスタイルを偲べると思います。 (2005年6月19日 記) … 続きを読む
思い出ばなし 冬のお弁当 | 工藤 央 子供の頃のことを思い出していて、夕張東高校のことを思い出しました。 父が夕張東高の教師だったというのは以前書いておりますが、幼稚園が冬休みの時などに、父に弁当を持っていったときの記憶です。 毎朝高校に行く父は、私のスキーを持って出かけていきました。 11時すぎ弁当が仕上がった段階で、 … 続きを読む
随想 関西から スキーのはなし | 近藤志津枝 寒い日が続いていますね。 北海道はいつも雪だるまマークですね。 今年は各地、大雪被害も多大でお気の毒です。 大通り公園の雪像を できあがる様子をインターネットで見ています。 (観光客気分ですみません) スキーのはなし。 3才でスキーをはきました。みなさんこれぐらいですよね。 富士見町ゲレ… 続きを読む
楽しかった日々 八百五十のゲレンデ(3) 『大夕張小唄』にも詠われた『八百五十』。 見渡す限りの銀世界 スキーで鍛える この体 スキーをするには絶好の斜面で、ヒュッテもあった。 山神社から尾根伝いにいくコースと、沢づたいに行く2つのコースがあった。 ヒュッテは、吹き抜けの2階もあり、スキーの合宿ともなると十数人もの人数が宿泊する大… 続きを読む
思い出ばなし 大夕張でのスキー|山本栄子 私も60年前(小学生迄)、冬は毎日の様にスキー場に行ってました。 確か神社があり、そこから転ばぬ様に、かなりのスピードで滑り降りるのがベスト。 ロープリフト ロープにつかまって上がり、神社のある上迄行き滑り降りる単純な繰り返し。 手袋も雪がいっぱい、鼻水も。 今のようなスキーウェアも無く、寒… 続きを読む
思い出の記 昭和60年頃のビデオとスキー場そり遊び|Kawauchi Masami 昭和 50年ごろ、8mmが欲しくて迷っている時、世の中にビデオカメラが出てきました。 直ぐ買いました。 昭和53年の時です。 その時はカメラが28万円。しかし ビデオデッキが無ければ使えませんでした。ビデオデッキも28万円しました。 でもカメラに覗き窓だけで、ピントはテレビの画面見て合わせま… 続きを読む
映像 昭和60年頃 スキー場 当時、南部に住んでいたKawauchiさんがご家族のスキーをビデオで撮影したもの。 ロープ・トウ ロープ終点の小屋 急角度の斜面のてっぺんは、神社に続く、八百五十の尾根。 短いながら、これら懐かしい背景が映像の中に映り込んでいます。 その頃、ビデオはなかなか一般的ではなく貴重でした。 https… 続きを読む
思い出ばなし 昭和30年前後のスキー場|野崎昭雄 私の記憶では、昭和30年代前半まで(1950年代)、富士見町のスキー場は、段々畑がそのままスキー場になっていたような気がします。 ですから、滑り降りると、下手な人は段差で腰をとられ転ぶことがよくありました。 そのような話が、このページで出てこないところをみると、その後、改修されたものでしょ… 続きを読む
思い出ばなし スキー場の思い出 |武田 出 もう30年たちますが、私は小学校2年の時から大夕張を離れる小学校6年の冬まで、富士見町1丁目22番に住んでおりました。 冬休みともなると、今みたいにゲームボーイも、ベイブレードも無い時代ですから、毎日毎日、朝から晩までそのスキー場で滑ってました(上から降りてくるとその惰性で玄関まで入れるよう… 続きを読む
思い出貼 子どもとスキー 昭和30年頃、八百五十のゲレンデにて。父が友人のご家族と一緒にスキーにでかけた時の写真。息子さんのカメラへ向ける眼差しが可愛らしい。 白黒写真着色した画像 竹ストックとスキー 【飯田雅人】 このストック、今見ても全然違和感ありません(笑)。 多分自分がものごころがついてスキーに初めて接し… 続きを読む
楽しかった日々 八百五十のゲレンデ(2) 昭和30年 八百五十のゲレンデで。山の向こうに山、山がつらなる。 八百五十 【飯田雅人】(2021年3月12日) 私が過ごした大夕張に八百五十(はっぴゃくごじゅう)と呼ばれる山があった。 海抜850メートルの山だから八百五十とよばれている、と小さい頃から聞かされていた。 住む人たちには、山スキ… 続きを読む