思い出の街角 閉山直後の大夕張炭山駅 活気が失われた炭山駅。 線路枕木が撤去され、すでに雑草が伸び、荒れた印象の写真だ。 故郷の懐かしい駅を知るものにとっては、この写真を鹿島小学校の資料室で見た時には、心地好いものではなかった。というか、そこにあった『閉山直後』とキャプションされた写真の数々は衝撃的でさえあった。 街を地域をこうも破… 続きを読む
閉山を迎える街 昭和48年の街 その8 上村さんが、昭和48年に撮影という写真のシリーズから。 自分が住んでいたのは昭和46年3月までだったのだが、その当時と街並みはほぼ変わらないだろう。 栄町から富士見町方面を見渡した部分。 自分が富士見町6丁目に住んでいたのは、山のすぐそば、山の近く。 家の裏の沢を越えて道なき急な坂を登る、そ… 続きを読む
記念の日 三菱大夕張炭砿労働組合 歴代組合長 三菱大夕張炭砿労働組合解散記念誌『未来にむかって』から。 三菱大夕張炭砿閉山による労働組合の解散記念パーティにて顔を揃えた歴代の組合長たち。 1945年8月日本の敗戦後、昭和20年11月10日大夕張炭坑夫労働組合が発足。 戦後28年に渡り、炭砿労働者の生活環境や待遇改善を目指して闘争を行なった。… 続きを読む
思い出の街角 歩道橋から錦町方面 ~鹿島小学校前踏切~ 歩道橋から撮影した錦町方面の写真。 手前には、今まさに鹿島小学校前の踏切にさしかかる列車、先頭の蒸気機関車のプレートも『No.5』と読める。 大夕張駅に到着だ。 その背景、写真の右手には、鹿島小学校の木造体育館が見えている。昭和53年に新体育館ができるまで、大夕張の子どもたちの体育や… 続きを読む
思い出の街角 大夕張神社からの街並み《カラー版》 昭和6年頃とされる白黒写真に着色した。 あらためて昭和48年の全景写真から、同じような構図で並べてみると次の様になる。 山が近い。 町だけでなく、背景の山の木々も人の手が入り姿を変えている。 大夕張駅の駅舎は小さく、その前の通りも広い・・・というか道の両側に建物がない・・・。 三菱大… 続きを読む
2丁目3番地 昭和48年11月鹿島中学校生徒住所録 ここに送ってもらった一冊の『鹿島中学校生徒住所録』と書かれた名簿がある。(正確に言うとそれを撮影した写真だが) 藁半紙をホッチキスで閉じただけ簡素な作りの名簿は、黄ばんで文字も薄くなっている。 発行された日付は、昭和48年11月。 三菱大夕張炭鉱閉山が決定した1973年… 続きを読む
思い出の街角 階段を上った先の大夕張神社拝殿 大夕張神社参道の階段を登りきると、その先に・・・視界が開け、広い境内が表れる。 そしてその先に山神社の拝殿がある。 写真の手前の台座にはかつて立派な石の灯籠が立っていた。 くらしの中の神社。 年の初めと終わり、日々のくらしの様々な場面で足を運んだ場所。 故郷を出、人生の節目でこの場所に立… 続きを読む
運んだ、石炭を人を 塩狩峠ロケ列車 シューパロ湖岸、下り列車のNO.4。 『ふるさと大夕張』への掲載当時、撮影した長谷川潤一さんから、次のコメントをいただいた。 <長谷川潤一さんのコメント> 「塩狩峠ロケ」はラッセル車と同じ場所で雪中、撮ったものです。 三浦綾子原作で、確か松竹映画。 佐藤オリエ?が女優さんで来ていたと思いま… 続きを読む
思い出の街角 大夕張駅に向かって 春日、弥生、代々木の3つの町の境界線が接するようなこの場所。 同じような立ち位置で撮影した写真に、『代々木アパート手前から』と『大夕張駅から代々木アパートまで』(下記参照)があるが、その二つの写真の中間あたりから撮影した写真だ。 おそらく撮影者の右手には中西豆腐店や代々木町の… 続きを読む
閉山を迎える街 昭和48年の街 その7 大夕張神社からの風景。 大夕張駅構内。購買会裏、倉庫などの貨物、石炭置き場など、住民にとっての物流の拠点を中心に置かれた写真。 二枚の写真を合わせたため中心でわずかにズレが生じている。 拡大して閲覧できるように高解像度のまま掲載。 大夕張神社から https://ooyubari.com/2… 続きを読む
大夕張の全景 南部 全景 昭和の初め、炭砿の中心が南部から北部大夕張へ、そして昭和48年以降ふたたび石炭で栄えた南部の街の全景。 中央に、三菱南大夕張炭砿と営林署の貯木場。 夕張岳を背に奥に大夕張ダム。 ダムから下流、夕張川が流れる。シューパロ川というのは二股より上流の呼び名だった。 一番手前が『菊水町』、右に橋… 続きを読む
随想 大夕張へい山反対!|市橋勝 私が鹿島東小学校の5、6年生の担任の先生は水間テル先生でした。 優しく肝っ玉母さんのような「豪快さ」で、悪ガキだった私を見守っていてくれたことを思い出します。 当時、水間先生はクラスの私達に定期的に日記を書かせ、それを提出させていました。 しかも、丁寧なコメントを添えて毎回返却してくれ… 続きを読む
思い出の街角 昭和48年 栄町商店街 TV番組の中で資料映像として流れたフィルムから、退色を補い彩色をほどこしてみた。 この頃、「メガネの福川」の看板の向こう、伊藤玩具店のあとできた「パチンコ」店、その隣にはよく見えないが、Cokeの赤いロゴと雀球平和の看板。ここは昭和43年の住宅地図では志村菓子店だった店。 そしてその隣の本間… 続きを読む
思い出の街角 大夕張駅前から代々木アパートまで 昭和48年閉山後の写真。 駅前の通りをずっとくだり,春日町へ続く坂の手前、舗装が途切れであたりで振り返るとこんな光景が広がった。 春日町・弥生町・代々木町の分岐点とも言う場所か・・・。 道路をはさんで、左側が弥生町、右側が代々木町。 左にいくと、春日町に降りるもう一つの広い道。 遠くには… 続きを読む
閉山を迎える街 昭和48年の街 その6 昭和48年(1973年)の大夕張の街。 その3(富士見町の山の方の住宅地)から、ずうっと、その4(北栄町-官行の工場地帯)、その5(大夕張を中心にした駅前)と視線を巡らせて、足下には、神社の登り口でもある鹿島小学校のグラウンドが見える。 下の様子が手にとるようにわかる。 バックネ… 続きを読む
映像 閉山前の大夕張の映像 1997年から1998年にかけて「ダムに沈むまち大夕張」としての報道が各機関で取り上げられました。 その中に、昔の大夕張を紹介する映像がたびたび流されました。 ここの映像は、その中でも1997年7月6日(日曜日)に放送された『新・北海道中ひざくりげ』の「故郷を心に刻む旅」の中で流れたものです。 二木… 続きを読む
運んだ、石炭を人を 大夕張駅を出発するNo.6 白煙を上げて大夕張駅を出発するNo.6。 撮影した『海も好き』さんの記憶では、鹿島小学校下の踏切付近から撮影したのではないかという。 右に見えているのは、消防署の建物の裏になり、もう少し手前に火の見櫓が続く。 『No.6』が吐き出す煙とともに、大夕張駅前の背の高いポプラの木が風にそよぐ。 白黒写真に… 続きを読む
閉山を迎える街 昭和48年の街 その5 昭和48年の街。 山懐に抱かれた街並みの様子を大夕張駅中心に、神社からの風景。 あの日、あの時、神社から見た街のように、駅前通りを行く人、学校のグラウンドで遊ぶ子どもたち、家のそばの空き地、写真の中に新しく見つけたものはあるだろうか。 昭和48年大夕張… 続きを読む
運んだ、石炭を人を 大夕張炭山駅付近 大夕張炭山駅は大夕張鉄道の始発駅。 炭山駅の表札のかかる出入り口のところに、昭和30年代三菱バスの『砿業所前』、始発、終着の場所として記憶を留めていた。 その頃、シューパロ川上流の清流で川遊びをした。 「官行に遊びに」行く際、炭山駅の前の踏切を渡った記憶を呼び起こす写真でもあった。 勇壮に黒煙… 続きを読む
閉山を迎える街 昭和48年の街 その4 昭和48年(1973年)の街なみ。 手前、スキー場と周辺の富士見町2丁目の住宅。 健保会館プールの向こうに栄町1丁目から炭砿病院。 そして向こうには、官行が工場群が見えているという大夕張神社からの見慣れた光景だが、この後、ほんのわずかな期間でこの光景は一変したことだろう。 小学校の頃、左下の青い屋根… 続きを読む