思い出の街角 湖畔の道路とジープ 昭和40年頃?舗装化される前の鹿島道路。明石町から南部の間、昭和37年に開通したとはいえ、舗装道路になったのはずっと後のことだ。 明石町の郊外?自動車と併走するSLの走行写真で、よくみるような場所だ。 大夕張方面に向かって走る三菱・ジープ。 ジープ型の車両は、大夕張でよく見かけたタイプだ。 この… 続きを読む
2丁目3番地 札幌にあった三菱の宿泊施設 覚え書き 実は、『札幌にあった三菱の宿泊施設』は前回の『その3』で終了の予定だった。 記憶の中にあった、自分が泊まった北1西8の寮と、スキー部が泊まっていた南3西23あたりにあった寮。 この2つは記憶に確かにある。そして、北2東6の三菱鉱業寮にも泊まった人がいる可能性もないわけではないということだった。 … 続きを読む
思い出の街角 湖畔の道路 昭和37年(1962年)10月。それまで陸の孤島だった大夕張に陸路がつながり、街が大きな喜びに包まれた。 南大夕張ー鹿島間の間が開通して間もない頃の湖畔道路。 大夕張を出たり、入ったりするときは必ず誰でも通った場所でもある。 遠目に、これも開業間もない湖畔亭と、鉄道のシューパロ湖駅が写る。 シュ… 続きを読む
思い出ばなし 『安田のおばさん』の味|飯田雅人 今日,母がTV番組の道産子ワイドでやっていたからといって、『おふくろ煮』というおかずを作りました。 キャベツをあぶらげと一緒に煮たしょうゆ味の食べ物です。 これを食べるといつも思い出すのは『安田のおばさん』と呼んでいた一人の女性です。 昭和40年前後,父が北大病院に入院し、母が付き添い… 続きを読む
絵画 夕張岳 ~祖父のスケッチ帖から~ 黒い表紙の小さなスケッチ帖を開くと、昭和14年11月19日の夕張岳が描かれている。 表紙の裏に鉛筆の粉がついて、ページ全体が黒ずんでいるが、描かれた線はしっかり残っている。 鹿島小学校(当時は大夕張尋常高等小学校)の木造校舎の屋根越しに見える夕張岳の姿だ。 かつて祖父の自宅仏間には、夕張岳の写真… 続きを読む
随想 ミカン箱のそり | 内川准一 みかんの箱のふたを取ると、下から現れる絵柄のセロファン。 産地によって、いろいろと趣向を凝らしたみかんの絵だったり、凝った模様がセロファンの縁を飾っていたりしたものでした。 きれいなものは、南国に思いをはせながら、集めましたよね。 そして、箱の方は、最後には手作り「そり」になったもので… 続きを読む
あらかると 昭和48年 閉山直前の大夕張の商店 商店名は、『夕張市史(S56)』『鹿島のあゆみ』に、掲載されていたもの。これらに住宅地図や、写真にうつる看板、記事などから、町内名をつけて記載。 1973年(昭和48年)夏に大夕張炭鉱が閉山されと、大部分が移転を余儀なくされた。その一部は南部青葉町に新しい商店街を形成した。 閉山直後は、約4分の… 続きを読む
陳列棚 明治45年8月 大夕張炭山近況 北海タイムス(1912年〈明治45年〉8月6日)記事 【大夕張炭山近況】 従来の施設と将来の計画 松隈鉱長曰く大夕張炭礦株式会社時代に於る同鉱の施設は 一見頗るハイカラ風にして 坑内外の経営は略ぼ完成したる如き 観かるも仔細に之を検覈せば 凡て外観を美装したるに過ぎずして 其実質に至りては確たる方針… 続きを読む
学び舎の思い出 昭和26年鹿島小学校から児童とともに鹿島東小学校に移動した先生たち 昭和26年鹿島小学校から児童と共に鹿島東小学校に移動した教師(鹿島東閉校記念誌s53) 白黒写真に着色した画像 昭和26年鹿島小から移動した先生方【飯田雅人】 男姓8名、女姓6名の計14名の先生。鹿島東閉校記念誌や、鹿島小の記念誌などの職員の名簿から、お名前を調べたのですが、それらの冊子では、移… 続きを読む
続・大夕張つれづれ 雪の降る夜の大夕張|高橋正朝 #71 H という男性に出遭ったのは、私がリビアから帰国してから、3〜4ヶ月した春のことである。 だから、38年前にさかのぼる。 私が所属していた会社が、私を、ある商社に出向させた。 その商社の本社に行って担当者に会ったのは、そのとき1度だけだった。 その後は、その商社が一部分賃借し… 続きを読む
学び舎の思い出 昭和26年鹿島東小学校 千年町、シューパロ川そばにあった鹿島東小学校。 昭和26年、開校。木造校舎2階建。鹿島小学校の児童数増加により分離。 千年町、常盤町、明石町、鹿島開拓の児童が、当時13名の教職員とともに鹿島小学校より移動した。 児童たちは、自分たちが使う机や椅子を背負い、教師に引率されて移動したという。 当時を… 続きを読む
運んだ、石炭を人を 9201 9201 北部移転当初の昭和4年から昭和38年まで、活躍を続けた蒸気機関車。 白黒写真に着色した画像 昭和35年大夕張炭山 入替えに活躍した9201号と9237号 【奥山道紀】 9200形機関車は,昭和4年専用鉄道の北部延長,自営運転開始に合わせて美唄鉄道より譲受ました。 以来,「920… 続きを読む
思い出ばなし 教会のクリスマス |千古のみどり 河村先生のステンドグラス 教会の行事があるごとに、河村先生は、色とりどりのセロファンを型どって、教会の窓硝子に貼り付け私達に、ステンドグラスとはこんなものなのかと見せてくれました。 作業は決して人に見せないで、夜中にこっそり仕上げて、私達を驚かせ、喜ばせてくれました。 キャロリング クリ… 続きを読む
思い出ばなし 雪の思い出|上村正樹 雪で思い出すのは、鹿島中を卒業してから高校入学式までの間、除雪のバイトに行った事。 確か日当が600円だったように記憶しています。 他にバイトなんて無かったと思います。 昭和45年の高校入試は大雪で、交通機関がストップして、試験が延期になりました。 東高の行事で雪祭りがあり、製作中に崩れて下敷きに… 続きを読む
絵画 祖父のスケッチ帖 祖父長谷川安造が沼ノ沢から大夕張の尋常小学校に赴任したのは、昭和13年春のこと。 34才の働き盛りの家族五人を抱えての引越しだった。 祖父は、絵を描くことが好きだったようだ。 秋の冷え込む頃に写生に歩き、土手や山野に腰をおろしてスケッチしていたため、肛門を悪くし入院し手術したという。 退職してからも… 続きを読む
写真 千年町バス通りの鹿|高橋歌子 2010年6月、千年町のバス道路。 織田商店の前辺り 向かいにお寺(願正寺)が見えた。 道の両側には、千年町の商店街が見えた。 右手に織田商店。 今でも眼を閉じるとその光景がうかぶ。 当時は何もないと思っていましたが、木の電柱がここに街があったのだと教えてくれるようです。 新たに大夕張の住民になった… 続きを読む
運んだ、石炭を人を 冬のバスと車掌さん 1965年(昭和40年)頃 冬の三菱バス大夕張営業所前で撮影された写真だろうか。 中扉の旧塗装は、千年町のいとこの家に行くときにいつもこれに乗っていた。 馴染み深い車体だ。 扉の足下についていた『クレハ』のロゴもなぜか覚えている。 車掌さんのパーマヘアもなつかしい。 この頃、こういうヘアスタイル… 続きを読む
随想 土屋先生|成松泰彦 『2001年10月28日 私のふるさと物語』 昨日のロケで鹿島小学校グランドに行ってまいりま した。 終日、夕張岳が僕らを雨から守ってくれ顔を出してくれていました。 お祭りの時に、でみせが出店していたように体育館の下の道端には久しぶりに車・ 車・車・・久しぶりに賑わった大夕張。その数100名。 そし… 続きを読む