運んだ、石炭を人を 三菱バス 大夕張営業所 病院横にあった三菱(鉱)バス 大夕張営業所。昭和40年代 白黒写真に着色した画像 屋根の大看板『三菱(鉱)バス』の文字。営業所前の『くろゆり号』 … 続きを読む
2丁目3番地 札幌にあった三菱の宿泊施設 その3 旧永山邸の門柱と旧三菱鉱業寮の建物 札幌市中央区北2条東6丁目、大型商業施設の隣りに三菱鉱業が所有していた、旧永山邸がある。 永山邸は、明治10年代に建築された永山武四郎の私邸。 1911年(明治44年)に三菱が買収し、事務所として使用、1937年(昭和12年)に北1条通りに面した北側部分… 続きを読む
2丁目3番地 札幌にあった三菱の宿泊施設 その2 (前回のつづき) 前回、 Masaaki Saito さんの南3西23あたりにあった宿泊施設と、自分の北1西8にあった宿泊施設の思い出について掲載したが、同じような思い出をもち、何か覚えている方がいるのではないだろうか?と思い、何人かの方に聞いてみた。 その記憶を以下に紹介する。 (Kawa… 続きを読む
2丁目3番地 札幌にあった三菱の宿泊施設のはなし その1 先日、鹿島中学校の同級生のMasaaki Saitoさんから、メールがあった。 札幌にあった三菱の宿泊施設についてだった。 Masaaki Saitoさんのメールによると、その宿泊施設は、南3条付近で、西は23丁目前後だったという。 そこに宿泊した時の思い出を次の様に書いてくれていた。 お… 続きを読む
映像 栄町プール(昭和60年頃) Kawauchiさんが当時南部に住んでいた頃、かつてくらした大夕張のプールで撮影したご家族の大切なホームビデオ。 1990年代、アナログからデジタル化へと世の中が変化する中、ビデオからDVDにして残されてきたそうです。 映像には、栄町のブロック住宅などの家屋はなくなったものの、1960年代の… 続きを読む
2丁目3番地 3年目の独り言 昨日12月8日で、『ふるさと大夕張』の更新を再開してからちょうど2年たちました。今日から3年目。 備忘録ということで、例によって自分のために節目の記録として残していきたい。 昨年1年経ったときには、次の様に書いていた。 『今後も、旧『大夕張掲示板』や、旧『住民登録』の投稿を、現在の『夢の… 続きを読む
炭鉱とともに 三菱鉱業大夕張礦業所全景 昭和30年代 白黒写真に着色した画像 大夕張礦業所全景。表玄関とも言うべき事務所の裏手にあたる一帯。左手下の建物は,進発所。中央には,コークス工場,石炭の積み出し施設が見えています。 https://ooyubari.com/2020/04/16/s33kogyosyotatemono/ 進発所… 続きを読む
思い出の記 南大夕張の選炭機|Kawauchi Masami 私が勤務していた南大夕張の選炭機のはなしです。 運転の時、操作盤のランプテストあとに、工場内に2回のベルの合図、3回目で運転です。 運転は両手で、同時に2つの運転スイッチを押します。 順番に運転していきます。 石炭が上がってきました。 水槽で煽りながら、比重の違いで石炭とズリを、分けてい… 続きを読む
炭鉱とともに 昭和8年 大夕張礦業所 こちらの写真も、『昭和8年 栄町』の写真と同じように、かつて九州の大学のデジタル資料で公開されていた画像の2枚のうちの一枚。 石炭の積み込み場のあたりには、石炭車を連結した蒸気機関車が白煙をあげているのが見える。 その向こうの工場地帯は、開発までの原野が広がっている。 原野を切り開いて建設され… 続きを読む
思い出の記 採炭から選炭へ(後編 選炭)|Kawauchi Masami 選炭機 石炭の選別 選炭機では『1号炭』、『2号炭』、『ズリ』に分けられます。 コンベアにのって石炭が運ばれてきました。 水に入れて煽っていきます。 水は流れています。その中でズリは沈み、ズリ山へ運ばれます。 少し軽い石炭は2号炭になります。 2号炭の荒目は家庭に配られます。細い… 続きを読む
思い出の街角 昭和8年栄町 昭和8年大夕張礦業所全景の写真は、以前、九州の大学図書館のデジタル資料で公開されていたものだったと記憶するが、現在探しても見つからない。 年代は、昭和8年(1933年)とあっった。 南部から、(北部)大夕張に移転後、4年ほど経過した時期の頃。 鉱員の住宅街。場所は栄町。 炭鉱操業当時は、炭鉱住宅… 続きを読む
思い出の記 採炭から選炭まで(前編 採炭)|Kawauchi Masami 石炭とズリが選炭機にくる前の、現場の話を書きます。 私は、掘進現場と採炭現場の機械も、修理していました。 炭鉱の事を、採炭現場から選炭機まで知ってる人は、少ないと思います。 思い出しながら書きます。 採炭現場 大夕張 採炭現場 南大夕張 採炭現場 まずは、採炭現場から。 ドラムカッ… 続きを読む
映像 昭和60年頃 スキー場 当時、南部に住んでいたKawauchiさんがご家族のスキーをビデオで撮影したもの。 ロープ・トウ ロープ終点の小屋 急角度の斜面のてっぺんは、神社に続く、八百五十の尾根。 短いながら、これら懐かしい背景が映像の中に映り込んでいます。 その頃、ビデオはなかなか一般的ではなく貴重でした。 https… 続きを読む
続・大夕張つれづれ T の後頭部の傷 |高橋正朝 #68 今から7〜8年ぐらい前だから、2014年ぐらいのときだったように思う。 用事があってバンコクから帰国した際、札幌で、鹿島東小学校の4〜6年生の菊組で同級だった、苗字のイニシャルの U という男性と会った。 娘さんが2人いて、それぞれ子どもがいる。 U… 続きを読む
校歌よ永遠に 鹿島小学校校歌(カラオケ風ver.) 『校歌よ永遠に』で伴奏譜からMIDIデータに作成したのが、1998年頃。当時、『Singer Song Writer(SSW)』というソフトウエアを使っていた。歌詞とMIDIデータを並べたページを作り、CDに保存しておいたりして、交流会でお披露目などしたこともあった。 それから、手つかずだったデ… 続きを読む
思い出ばなし 初めて食べたホットドッグ|Kawauchi Masami 小野さんの『人々でにぎわった教会のバザー』のおはなし。 昭和39〜40年の夏の話ではないでしょうか? アメリカの祭りみたいのが、大夕張のカトリック教会で有りまして、皆さんが誘ってくれて、なんだか分からないうちに、教会の会場に行きました。 中はアメリカンスタイルで、そこにいるだけで… 続きを読む
炭鉱とともに 婦人たちの行進 昭和30年代、大夕張炭鉱労働組合の主婦会による団体行動。婦人たちに混じり子どもたちの顔も見える。 大夕張礦業所のゲート前に集結するところのようだ。 大夕張炭山駅の屋根のあたりから撮影したと思われる北から街方面を撮影した構図。 冬空の下の組合行動とはいえ、カメラに写る婦人たちの表情に笑顔があり、どこと… 続きを読む
思い出ばなし 昭和30年前後のスキー場|野崎昭雄 私の記憶では、昭和30年代前半まで(1950年代)、富士見町のスキー場は、段々畑がそのままスキー場になっていたような気がします。 ですから、滑り降りると、下手な人は段差で腰をとられ転ぶことがよくありました。 そのような話が、このページで出てこないところをみると、その後、改修されたものでしょ… 続きを読む
思い出の街角 函渕 昭和30年頃。 この場所は、後年、大夕張ダムが作られたところ。 かつて南部から夕張川を遡行すると上流は二股に分かれていて、シューパロ川とパンケモユーパロ川が合流していた。 二つの川の合流地点であることから、二股、と呼ばれた。大夕張ダムの別名も、二股ダムである。 大夕張ダムができる以前、この… 続きを読む
思い出ばなし スキー場の思い出 |武田 出 もう30年たちますが、私は小学校2年の時から大夕張を離れる小学校6年の冬まで、富士見町1丁目22番に住んでおりました。 冬休みともなると、今みたいにゲームボーイも、ベイブレードも無い時代ですから、毎日毎日、朝から晩までそのスキー場で滑ってました(上から降りてくるとその惰性で玄関まで入れるよう… 続きを読む