神社の丘からの風景 昭和52年8月、閉山後4年後の大夕張。 すでに旧駅前の付近を除いて空き地ばかり。 この写真は、昭和52年8月「みほ」さんが、家族で大夕張を訪ねた時のもの。(この時、撮影された写真は、このページ以外にも掲載) この時、どういう思いで撮影し、町を歩いただろう。 実は同じ…
平成9年(1997年夏) 大夕張にダムが建設されると聞いた 鹿島小学校も閉校になると知らされた いてもたってもいられず 大夕張に行った 神社のあった丘から見た町は 山々の緑の中で あまりに小さく縮んでいた 1997年 夏 大夕張 …
東高生には馴染みの深い『高島屋ラーメン店』(明石町) 店先の横に机や椅子が用意してあり、そこに腰をかけて勉強をしている生徒達の姿。店主と生徒のつながりが見えるようでおもしろい。 白黒写真に着色した画像 昭和47年発行 夕張東高等学校20周年記念誌『シューパロ』より…
昭和27年鹿島小学校入学で、小学校3年生頃、担任ではありませんでしたが、一緒に遊んでくれた思い出があります。 米沢先生のクラスに、友人がいましたので良く遊びました。 深夜、米沢先生が宿直の時、鹿島小学校でお化け遊びと称して、何人かの友人たちと学校内を探検しました。 ある日、先生が私たちを…
この写真、昭和30年代中ころ。 頭の中で描いていた色とりどりのオモチャ達が、モノクロからカラーへ。色がついて身近になった。 記憶をたよりに、想像をいれながら、彩色していった。 今も頭にあった色のイメージ・・・SLは濃い青、バスは赤みがかった黄色ないしは黄土色に近い色、というのが記憶に残る…
高校3年の修学旅行時(何度か書きましたが、私は小学4年の時に大夕張を離れましたので、当然夕張の高校ではありませんが)、函館→青森の青函連絡船内で、同じく修学旅行中の夕張北高の一行と、偶然にも一緒になったのでした。 その時の状況を詳しくは思い出せませんが、「夕張」ということで、多分私がその中に知…
撮影者は屋根の上に立って撮影したのだろうか、けっこう高い位置で撮影している。 正面に磯次郎の沢。沢の裏手の山は、山菜を取りにはいったり、遊び場にしていた子どもたちも多かった。 季節は秋だろうか。昔、畑に藁で野菜や木を保護したり、物干しにダイコンの葉をかけていた様子を覚えているが、住宅の畑に…
東京にきてから、この〘 もちょこい 〙〘 もちょこす 〙は、比較的早く忘れた北海道弁である。 この〘 もちょこい 〙〘 もちょこす 〙は、くすぐったり、くすぐられたりしたときに発する言葉なのは、皆さんご存知のとおり。 ま、たいてい、相手とふざけ合って、くすぐったりくすぐられたりしたと…
秋になると行なわれていた、鹿島中学校の年間行事の『文化祭』という名の学校祭。 最終日に行なわれていたファイヤーストーム。昭和45年の写真だ。この時、3年後に大夕張が閉山になるとは、夢にも思っていなかった。 左手に体育館、校舎。右手に学校林、学校林の先は、シューパロ川。 正面、木々の間にわ…
私が、栄町アパート( 栄町2丁目14番地の8)に住んでいた頃、二つ向こうの棟のアパートに「佐藤ひでみ(秀美)」君という同級生が住んでいました。 彼は、何事にも真面目で、ひたむきさを持った少年でした。 家が近所のこともあり、互いの家に遊びに行ったこともありました。 彼との思い出で、いつ…
昭和46年卒業のアルバムの写真だから、昭和45年(1970年)の鹿島中学校の『球技大会』の写真。 教室の校舎と廊下の校舎に囲まれた二つの中庭に、バレーボールと、テニスのコートがあった。 球技大会の種目は、体育館で「バスケットボール」と「卓球」、中庭コートで「バレーボール」、グラウンドで「ソ…
わたしが好きな音楽での思い出をひとつ。 前にも書きましたが、私は音楽が好きでしたが、生の交響楽団を聴くチャンスは、大夕張ではありませんでした。 しかし中学校の時に、札幌交響楽団が、鹿島中学校の体育館で演奏会を行いました。 音だけは知っていたが、見たことも無い楽器を大勢の音楽家が目の前で…
昭和29年(1954年)7月18日の稚児祭りの3枚の写真のうちの一枚。 後ろの線路脇の向こうには大勢の人出。 稚児行列の子供たちは日ざしがまぶしそう。 自分はあまり馴染みがなかったが、「稚児祭り」「稚児行列」「お稚児さん(おちごさん)」と呼ばれて、今も全国で行なわれている。 衣装に色をつけ…
私は今アメリカのテキサス州ダラス市の会社からこの手紙を書いてます。 私の旧姓は藤井ゆかりです。私は昭和36年に夕張市で生まれました。 私が物心ついた頃は、夕張市花園町(その後、遠幌町に変わったかもしれない)に住んでいました。 私の叔母や叔父や祖父母は大夕張に住んでいて、そのうちの猪野泰次…
昭和45年頃 常盤町の坂の高いところから鹿島中学校方面をみた光景。季節は春だろうか、溶け残った雪のようなものが見える。 手前には山から流れる沢水を通す暗渠が見える。この沢は、地図や写真を見てみると、常盤町の坂と鹿島中学校の間で、幾筋も枝分かれをしながら流れをつくりシューパロ川に注ぎ込んでいた。 …
紅葉の季節ですね。 内地に比べると、大夕張の紅葉は鮮やかさが違います。ただ、期間が非常に短いのでタイミングが悪いと、見損なう恐れもある。 内地に住んでの感想は以前書きましたので割愛しますが、印象的な事柄として、車があります。 交通量の多さには、勿論驚きましたが、車の色の違いに感慨深かったので…
昭和43年9月23日、鹿島小学校40周年を記念した鹿島小学校鼓笛隊のパレードを写す7枚のうち、1枚。 先頭の学校旗から最後列まで、大夕張駅前通りを行くパレード全体が写っている。 実際には、この写真の前を『祝開校40周年』の幟をかかげた児童が歩いている。 昭和43年当時、駅前通りの舗装化工…
昭和45年頃の栄町商店街。 文字が横になってしまって見づらいけれど、他の商店街の地図と揃えて東を上向きにしています。…
鹿島東小学校閉校記念誌の中からの一枚。 つけられたキャプションには、「昭和33年頃、里見公園に遠足にいく かわいい一年生」とある。 サトミ公園は大夕張にあった小公園。 写真の背景から、サトミ公園から鹿島東小学校に帰る途中の姿だろうか。 常盤橋も旧橋。 昭和30年前後、鹿島東小学校から明石町…
本日、2013年6月20日。 若菜を右に、夕鉄のバスの建物を懐かしく想いながら、ひたすら清水沢へ。 途中、平和の炭坑の面影を背負い、清水沢の駅舎をのぞき、嘗ての 学ラン姿、セイラー姿の往来を感じながら、あそこに、カツオ出汁の30円ラーメンがあり、道を挟んでお焼き屋のお店があり、駅前食堂があり・…