2丁目3番地 若者たち つぎは、2003年に書いた投稿から、書き出した文章です。 これまでもHP中の思い出に投稿されている小林俊治さんから 『昭和41~42年のテレビ番組』 と題して次のようなメールをいただきました。 『このころ、北海道の各炭鉱の事故をニュースで聞くたびに悪い情勢へ・・・・・高度経済成長の時代で、ふっと… 続きを読む
2丁目3番地 2022年2月16日でのアクセス数 どうでもいいという話といえば、これはどうでもいい話なのですが、サイトを運営する者としての自分の記憶と記録のために書き留めておきたいと思います。 『ふるさと大夕張2丁目3番地』のアクセス数が、昨日の昼頃『1.311.036』となりました。 『ふるさと大夕張(1丁目1番地)』のカウンター… 続きを読む
2丁目3番地 父とカメラ 白黒写真に着色した画像 高い雪壁の前でファインダーをのぞく父 昭和30年頃 父は、当時カメラに凝っていたという。 自分は、当時のそんな姿は見ていないが、たしかにアルバムには、家族や同僚を対象にした写真が多く残っている。 昭和20年代、あまりカメラを持っている人も少なかったと、… 続きを読む
あらかると 三菱大夕張高等家政学校 三菱大夕張高等家政学校は、昭和21年7月1日創立。 三菱大夕張礦業所では、従業員子女の教育を重視して、大夕張学園女子家政塾として昼夜の授業をおこなった。 160名収容、本科2年、専修科1年、毎年70名から80名の卒業者をだした。 栄町3丁目18番に幼稚園と同居していた。 家政一般学を教授し、… 続きを読む
あらかると ICAコンサルタント 1977年に、大夕張カトリック教会跡地に世界的な組織であるICA(地域人間開発計画のメンバー)が入山。 地元の開発対策委員会の協力によって、一週間にわたる開発会議がもたれた。 外国人約100人をまじえ、コンサルタントたちが、世界での23に及ぶ実績の上に立って様々なプログラムが討議された… 続きを読む
2丁目3番地 札幌にあった三菱の宿泊施設 覚え書き 実は、『札幌にあった三菱の宿泊施設』は前回の『その3』で終了の予定だった。 記憶の中にあった、自分が泊まった北1西8の寮と、スキー部が泊まっていた南3西23あたりにあった寮。 この2つは記憶に確かにある。そして、北2東6の三菱鉱業寮にも泊まった人がいる可能性もないわけではないということだった。 … 続きを読む
あらかると 昭和48年 閉山直前の大夕張の商店 商店名は、『夕張市史(S56)』『鹿島のあゆみ』に、掲載されていたもの。これらに住宅地図や、写真にうつる看板、記事などから、町内名をつけて記載。 1973年(昭和48年)夏に大夕張炭鉱が閉山されと、大部分が移転を余儀なくされた。その一部は南部青葉町に新しい商店街を形成した。 閉山直後は、約4分の… 続きを読む
あらかると 大夕張鉄道 沢と橋(山史から) 1号の沢鶯 沢2号の沢吉 野 沢3号の沢五 十 鈴 沢4号の沢香 椎 沢8号の沢明 石 沢5号の沢旭 沢6号の沢竜 田 沢7号の沢宝 沢名 取 沢初 音 沢昭和2年11月4日名称を付す 明石沢は、当初暗渠布設の予定だったが、これを橋梁に変更したため、… 続きを読む
2丁目3番地 札幌にあった三菱の宿泊施設 その3 旧永山邸の門柱と旧三菱鉱業寮の建物 札幌市中央区北2条東6丁目、大型商業施設の隣りに三菱鉱業が所有していた、旧永山邸がある。 永山邸は、明治10年代に建築された永山武四郎の私邸。 1911年(明治44年)に三菱が買収し、事務所として使用、1937年(昭和12年)に北1条通りに面した北側部分… 続きを読む
2丁目3番地 札幌にあった三菱の宿泊施設 その2 (前回のつづき) 前回、 Masaaki Saito さんの南3西23あたりにあった宿泊施設と、自分の北1西8にあった宿泊施設の思い出について掲載したが、同じような思い出をもち、何か覚えている方がいるのではないだろうか?と思い、何人かの方に聞いてみた。 その記憶を以下に紹介する。 (Kawa… 続きを読む
2丁目3番地 札幌にあった三菱の宿泊施設のはなし その1 先日、鹿島中学校の同級生のMasaaki Saitoさんから、メールがあった。 札幌にあった三菱の宿泊施設についてだった。 Masaaki Saitoさんのメールによると、その宿泊施設は、南3条付近で、西は23丁目前後だったという。 そこに宿泊した時の思い出を次の様に書いてくれていた。 お… 続きを読む
2丁目3番地 3年目の独り言 昨日12月8日で、『ふるさと大夕張』の更新を再開してからちょうど2年たちました。今日から3年目。 備忘録ということで、例によって自分のために節目の記録として残していきたい。 昨年1年経ったときには、次の様に書いていた。 『今後も、旧『大夕張掲示板』や、旧『住民登録』の投稿を、現在の『夢の… 続きを読む
あらかると 生協のたんじょう 1953 1953年(昭和28年)4月1日、準備委員会が発足し、6月7日、生活共同組合創立総会が開かれた。 そして、駅前の旧明倫寮前に仮事務所を定め、その年の夏、8月11日から店開きをした。 写真は、その当時の様子。 6坪の広さで開業後、翌、昭和29年8月には98坪、昭和36年10月には314坪と、拡大発展し… 続きを読む
あらかると 逃 亡 大夕張が、まだ南部だったころの大夕張炭坑の時代。 明治末期、日露戦争後、日本の経済は大不況に陥り、炭鉱の経営も苦しくなった。 炭坑夫 の中にも、重労働から逃れて他の職を求めたり、少しでも景気のいいヤマにいこうとするものがいた。 他のヤマからの引き抜きもあったという。 飯場制度の下にあった 炭坑夫… 続きを読む
あらかると 千年町に入った 指定商たち 南大夕張から新鉱を開いた北部に移転するのに伴い、それまで南部で営業していた商店が、大夕張に移転してきた。 三菱礦業所が、鉱業用地の一部を区割りして、1戸当たり間口4間、奥行き12間という広さで、営業地及び営業種別を指定した。 一商店あたり、三戸分まで借地でき、地代は坪あたり6銭3厘だっという。… 続きを読む
あらかると 大夕張鉄道敷設案 昭和4年の(北部)大夕張開鉱以前、北部大夕張の炭田の有望なことが明らかになり3本の専用鉄道敷設案が検討された。 大正7年(1918年) 7月、三菱鉱業が北部大夕張(鹿島)を調査し始める。 北部開発第1次案として『北部大夕張-万字間』鉄道調査。 万字の石川呉服店を根據として調査を開始するも急坂… 続きを読む
あらかると 三菱、大夕張炭坑買収のころ 手元に昭和41年8月1日発行の大夕張炭鉱労働組合『二十年史』がある。労働組合が記述した労働者の歴史、とはいってもかたぐるしくなく、読み物としても面白い記述が多い。時代の雰囲気や、様子がわかる部分を抜き書きしながら、ここに書き留めていきたい。 以下は、明治末期、資本参加していた三菱が、大正五年… 続きを読む
2丁目3番地 2001年10月28日 ~私のふるさと物語~その4 当日を迎える迄に、何回か、番組製作会社の方と連絡、打ち合わせをした。 自分の役割はたぶん当時のネットでつながっていた仲間の人たちに、人を大夕張に集まるお願いをしたというところだろうか。 先にも書いたが、どんなことを打ち合わせて、自分が何をしたのかはすっかり忘れてしまった。 それでも、自分も含… 続きを読む
2丁目3番地 2001年10月28日 ~私のふるさと物語~その3 この大夕張のロケの発端や、自分の詳しいかかわりなどは、20年前のこととて、すっかり忘れてしまった。 ただ大夕張がダムに沈むということで、当時は『消える大夕張への思い』が、各種メディアで盛んに取り上げられ報じられてていた。 下の新聞記事は、故郷への思いをテーマに、自分も取り上げられた… 続きを読む
2丁目3番地 2001年10月28日 ~私のふるさと物語ロケ~その2 午後11時頃、最初に、鹿島小学校校歌の歌唱シーンの収録から始まりました。 鹿島小学校鼓笛隊生みの親、田中豊一先生(田中先生は2010年にお亡くなりになりました)のピアノ伴奏に合わせて、「ああ、大夕張」の合唱がグラウンドに響きます。 イリュージョン。かつての大夕張駅前通り。元住民達が懐かしそうに笑顔で… 続きを読む