思い出ばなし 二人用学校机 |飯田雅人 机! 鹿島小学校低学年の頃は、上から重い蓋を持ち上げて、中に道具を入れるタイプの机だった。 真っ黒で木肌がごつくて重い机。 しかも二人用ので、2人の席はしっかりつながっていた。 動かすのも、一人の力では無理で二人で一緒に動かした。 高学年の頃からか,上に蓋のついた机から、天板の下に道… 続きを読む
随想 たつみのひろちゃんへ|大夕張寅次郎 幼き記憶の大夕張の三浦浩信さま 「たつみ」は岳富町にあったように記憶しています。 叔母さんの山田久美子さんは、東高の2期生でバレー部で活躍されていました。 とても元気で溌剌とした高校生時代のお姿を思い出しますが・・残念です。 ご冥福をお祈り致します。 叔父さんは、東高で事務のお仕事… 続きを読む
思い出ばなし 私が住んだ街 |太田 勢 私が大夕張に住んだのは、小学校2年生からの4年間でした。 両親が夕張出身(遠幌、楓)で、祖父母も夕張に住んでいたので、夕張には小さい頃から何度も行ってました。 そんな私が、父の転勤で初めて住んだ夕張の地が、大夕張でした。 私が住んだのは、富士見町6丁目の一番奥でした(家の裏は沢でした)。… 続きを読む
思い出ばなし 祖父の勇姿 | 勝又優子・桃子 祖父は昭和37年まで大夕張常盤町に住んでおり、当時ジャンプの選手として活躍していたとの話です。 大夕張代表として、4山対抗大会に出場し、少年組で優勝したとの事です。 画像が新聞の切り抜きのため鮮明ではありませんが、当時のジャンプスタイルを偲べると思います。 (2005年6月19日 記) … 続きを読む
続・大夕張つれづれ 妹の同級生、ナラ・ユウコ さん|高橋正朝 #78 前回、# 77 【 モディリアーニの『 腕を広げて横たわる裸婦 』 】の稿で、渡辺キミ子 さんと、末の妹の 綾子 のやりとりのことを書いた。 綾子 は、4人兄弟姉妹の末っ子で女のコということもあり、大変甘やかされた。 彼女は、誰が見ても、数人兄弟姉妹の末っ子だと想像でき… 続きを読む
思い出ばなし 冬のお弁当 | 工藤 央 子供の頃のことを思い出していて、夕張東高校のことを思い出しました。 父が夕張東高の教師だったというのは以前書いておりますが、幼稚園が冬休みの時などに、父に弁当を持っていったときの記憶です。 毎朝高校に行く父は、私のスキーを持って出かけていきました。 11時すぎ弁当が仕上がった段階で、 … 続きを読む
随想 トタン板 | ふじみちょう 夕張岳 35年ぶりに尋ねた「大夕張」 あの頃の町並みも目印になる建物もすっかり無くなっていた。 わずかに探し出せたものは、電柱、街路灯、側溝の石垣、U字溝、屋根に使用していたトタン板、錆びて朽ち果てた鉄棒とブランコ・・・。 あまりの変りように言葉を失ったのだが、我が故郷は心静かに迎え… 続きを読む
随想 関西から スキーのはなし | 近藤志津枝 寒い日が続いていますね。 北海道はいつも雪だるまマークですね。 今年は各地、大雪被害も多大でお気の毒です。 大通り公園の雪像を できあがる様子をインターネットで見ています。 (観光客気分ですみません) スキーのはなし。 3才でスキーをはきました。みなさんこれぐらいですよね。 富士見町ゲレ… 続きを読む
続・大夕張つれづれ モディリアーニの『 腕を広げて横たわる裸婦 』|高橋正朝 #77 例によって、飯田さんが編集した明石町の住宅地図をコピペ。 昭和43年明石町住宅地図 この地図をピンチアウトすると、高島ラーメン店の右側の家に、渡辺 と書かれているのが見える。 渡辺 さんは、大夕張鉄道の保線の仕事をしていた。 キミコ さんという一人娘がいた。 私の… 続きを読む
随想 明石町に住んでいました | 菅野彰彦 当時は小学校の低学年で、3年を終えると釧路に越しました。 線路づたいに千歳や大夕張まで歩いていったこともよくありました。 明石町の鉄橋の近くにあった古い駅舎は秘密基地でした。 明石町に住んでいたころは、夕張がとても都会に思えていて、それも懐かしいですね。 不思議と寂しいという気はしな… 続きを読む
思い出ばなし 八百五十の思い出|ziny やっぱ、思い出は神社の横道から始まる。 じっくりと夕張岳を眺めてから細道を滑り降りていった。 40年前、小学4~5年生の頃何度か行った。 永森恒夫先生に連れて行ってもらった時もあります。 急斜面を前にしてスキーを担ぎ、第1の壁、第2の壁を汗を流しながら登った。 途中、きつつき(あかげら)の… 続きを読む
随想 夕張東高校野球部地区予選の記録|夕張しみん ベースボールマガジン社から「にっぽんの高校野球 VOL12北海道編」が出版されました。 北海道の高校野球ファン待望の北海道編です。 大正4年に始まった『全国高校野球選手権大会』(当時は中等野球大会)の道内の参加校352校の地区予選の戦績が載っています。 夕張東高校は、昭和38年から47… 続きを読む
思い出ばなし 大夕張の冬の遊び | 久々湊真一 もうすぐ冬のオリンピックが始まります。大夕張っ子は、何やらワクワクしますね(笑)。 前祝に「大夕張の冬の遊び」を思い出して書いてみましょう。 <ジャンプ> 大夕張の子供は、小学校入学前後の年齢から、手作り台によるジャンプで遊んだ。 ジャンプ台を作る手順は、次のようにして行う。 (1)… 続きを読む
続・大夕張つれづれ 台風で、明石町の炭住の屋根がとんだ|高橋正朝 #76 例によって、飯田さんが編集した住宅地図と、大夕張年表の一部をコピペ 昭和43年明石町住宅地図 昭和30年代 明石町 昭和40年頃 1959年 昭和34年 9月 2日,ベル47J SONY号鹿島小に来校。 17日,鹿島高新校舎建設の地鎮祭,起工式。 27日,台風15号(伊… 続きを読む
随想 白金のおじいちゃんの家 | 孫娘 鹿島白金におじいちゃんが住んでいたので、遊びに行って五右衛門風呂に入ったり、家の後ろに作った土のレース場(?)みたいな所におにぃちゃん達が走りに来ていたのを思い出します。 おじいちゃんが亡くなってしまったので、遠退いていましたが、数年前、まだ少し人が住んでいる時にバイクで行きました。 … 続きを読む
随想 願正寺のどんぐりの木|信子 半年ほど前、仮性近視について調べていたらこちらのホームページに遭遇しました 故郷がインターネット上でも間違いなく現存していたとは!心から感謝します。 私は、昭和24年生まれで、東小学校梅組信田(宍戸)律先生、中学では白田良夫先生、東高校では考古学クラブでした。 ふるさと鹿島ウイルスに、18… 続きを読む
随想 天の川 | ぽち 鹿島にいたとき、芦別にいたとき。 夜におつかいに行ったときに、夜空には、いつも満天の星が天にきらめき、天の川があたりまえのように見えた。 でも、私はもう何十年も天の川を見ていない。 今は単身赴任で群馬県伊勢崎にいるが、やっぱり見えない。 毎日の犬の散歩のときにいつも空を見上げるが、やっ… 続きを読む
続・大夕張つれづれ 明石の沢へ翔んで逃亡したニワトリ | 高橋正朝 #75 前回、# 74 『 ミズキとまゆ玉 』の稿で、『 母親が、紫紅色のミズキの小枝をどこからか切ってきて 』と書いたが、そのミズキは、おそらく、# 45 『 明石の沢からの水汲み 』の稿で言及した明石の沢から、しかも、飯田さんが編集した写真のエリアから採ってきたものだったと思う。 ミズ… 続きを読む
思い出ばなし 鬼ごっこ |内川准一 小林さんの『鹿島小学校でお化け遊びと称して、何人かの友人たちと学校内を探検』した話を読んで、思い出したことがあります。 当時、線路脇の便所だったか、富士見丘寄りの便所だったか忘れましたが、掃除が終わり、丁度西日が便所の床に射し込む頃、しんとして不気味な雰囲気の校内で、時々かくれんぼをしたもので… 続きを読む
思い出ばなし 忘れ得ぬ鹿島小学校 |野崎昭雄 鹿島小学校校舎の写真を見て、四十数年前の小学校時代を思い出しました。 同校2年生に編入学したのは、昭和26年度でした。 そのときの担任は、若くて活発な尾崎という女性教員でした。 在職中に、あとから赴任してきた西村先生と結婚しました。 西村先生は、背が高く、スポーツマンで、歩き方に特徴ある… 続きを読む