随想

いまでも今日のことのように思い出せる。あの日、あの時の出来事。 今日につながる昔のこと・・・。

チャンピオンになった少年との黒帯の約束|小野美音子 随想

チャンピオンになった少年との黒帯の約束|小野美音子

 昭和39年(1964年)東京オリンピックが終わり、しばらくしてからの事でした。  父宛てに、青いインクで丁寧に書かれた、葉書が届きました。   父はその差出人である笹原富美雄五段を小学生の時に、柔道を教えた事があり、いつか強くなったら父の黒帯をあげると約束したというのです。   私はその時、父が柔…
心に残る故郷”大夕張” | 阿久津 誠 随想

心に残る故郷”大夕張” | 阿久津 誠

 私は、東校5期生ですが純粋な大夕張の出身では有りません。  母方(故人)の実家が栄町(だったと記憶しています)でしたので、亡くなった小学校4年生の年までは、お盆・正月等何かにつけて良く行ったものです。   栄町商店街、代々木のアパート群、プール、教会、スキー場等々・・・頭の記憶に残る場所は、結構有…
昭和35年鹿島小学校3年生 見学旅行 |奥山道紀 随想

昭和35年鹿島小学校3年生 見学旅行 |奥山道紀

昭和36年7月13日【北海道新聞・夕張版】   『みんなで旅行うれしいな 鹿島小三年生模擬坑など見学』   今月は市内小、中学校の修学旅行・見学旅行の最盛期。  鹿島小学校の三年生も十一日、夕張市内や栗山方面の見学旅行を行った。  昨年は小児マヒの流行でどこへも出かけられなかったこどもたちにとって、…
ふるさとの匂い |久々湊真一 随想

ふるさとの匂い |久々湊真一

 匂いというものは、記憶と深く結びついている。  昨年の5月に大夕張に行った時である。    僕の顔を撫ぜている風の匂いに、なぜか立ち止まって、懐かしさで胸が一杯になった。  大夕張の乾いた空気の匂い。    まだ肌寒いけれど、確実に春がやってくる花々の匂い。  それらが、どっとやってきて、僕は立っ…
なつかしいです|高橋博美 随想

なつかしいです|高橋博美

私は昭和30年生まれで高校1年の時、美唄から栄町に越してきました。  夕張工業の機械課を昭和48年に卒業しました。 以前、小林俊二が出てたのでなつかしく思いました。 思い出は神社の上でシンナー吸ったり、もう時効ですので言いますが、お金なかったんで夜、ガソリンを抜いたりとか、色々バイクでやかましくして…
ヒロちゃん・・・・? | 佐々木江里子 随想

ヒロちゃん・・・・? | 佐々木江里子

 つい先日、偶然このHPを発見し、活気ある頃の大夕張の写真やサイレンの音、聞き覚えのある名前など、大変懐かしく拝見させていただきました。   大夕張掲示板を今古い順に読み始めていますが、1998年7月02日に投稿されている菅井宏史様。  私は旧姓西岡と申しますが、昭和38年頃から40年頃まで富士見町…
ニュース映画 | 准 随想

ニュース映画 | 准

先ほど、札幌駅北口のアングラ劇場「さそり座」で「放射能を浴びたX年後」という映画を見てきた。 1954年以降繰り返されたビキニの核実験と、当時南太平洋各地で操業していて被爆した日本のマグロ漁船の乗組員の現在を訪ねるドキュメントだった。   ビキニと言えば第五福竜丸だけが有名だが、実は500隻もの漁船…
思わぬ出来事|佐々木洋子 随想

思わぬ出来事|佐々木洋子

ちょっと前の出来事なのですが・・・  3月初め、東京や千葉にも雪が積もりました。午後からアクアラインバスで母と東京へ行きました。  東京駅前に北海道フーディストというお店があります。  そこで店員さんが母に声をかけて来ました。 同級生?と思いましたが母より年上のかたです。 母をどこかで見たことがある…
心にしか、もうない大夕張 | 海野真由美 随想

心にしか、もうない大夕張 | 海野真由美

       5月の連休に行った時は、千年町の自分の住んでいた所さえ探すのに苦労しました。    やはり、同じ様に探している方たちと、何人かと出逢いました。     知らない方でしたが、久しぶりに会う懐かしい友のようで、涙が、流れそうでした。       私の町は、どこに行ったんでしょうか?    …
Re.サーチャージの日|ziny 随想

Re.サーチャージの日|ziny

   紫に 朝雲破れ 東(ひんがし)の 空映え渡る   常の日の 力の限り 試さばや いざ 今日の日に   准さん    ふるさと鹿島の風を シューパロの風を 未来の風を 受け   魂の響きを お伝えください。  雪が降る中、湖面に張り出した土手に立って湖面を見下ろしていると、どこからともなく三好達…
人生で一番、楽しかった頃 | 村岡(旧姓・雨森)由喜夫 随想

人生で一番、楽しかった頃 | 村岡(旧姓・雨森)由喜夫

 昭和20年代後半に遠幌の炭鉱住宅に住んでいました。  父は雨森康男、中学校の先生(英語)、母は艶、大夕張炭鉱診療所で歯科医。    私と弟は遠幌保育園でした。  雪の情景が、あの頃ラジオから流れた「雪の降る町」の唄と共に必ず瞼に浮かびます。   小学校の裏には熊が出るので銃を構えた案山子があったこ…
写真の声|斎藤敏幸 随想

写真の声|斎藤敏幸

『岳富町商店街と「しがい」』のコメントに「千歳町」を「しがい」と呼んでいたとありましたね。 僕の周りでも確かに「しがい」呼んでいました。 子供の頃は,街のはずれにあるから「市外」なんだろうと思っていました。 でも、飲食関係の商店街も沢山あったので「市街」だったのかもしれませんね。 武田自転車屋さんの…
地図に我が家はないけれど|佐藤正裕 随想

地図に我が家はないけれど|佐藤正裕

昭和43年緑町の住宅地図。 とても懐かしく思いました。 この当時私(昭和36年生まれ)は、拓銀の社宅に住んでいましたので、残念ながら地図には名前が載ってません(^^ゞ (社宅は、拓銀と棟続きだったんです) 拓銀の裏手にも拓銀の倉庫と社宅が一軒あったんですが・・・ やっぱり載ってないのは仕方ないですね…
祖父のこと|成瀬健太 随想

祖父のこと|成瀬健太

   私は名寄に住む者です。  自衛隊に身を置いていますが、趣味が炭鉱遺跡巡りなので休暇を用いて知人と共に訪れています。  鹿島地区も何度か探訪したことがあります。   実は、私の祖父がかつて大夕張に身を置いていました。   戦時中に、挺身隊で昭和17年に大夕張入山し、翌年3月感謝状を授与されました…
火の用心 | 内川准一 随想

火の用心 | 内川准一

春ですね。 アパート裏手に広がる北大第二農場の雪融けも近い。 ここの雪原は、毎年、ある日突然、一斉に融ける。 そして、土の原(畑)に変わるまでのわずかに2日ほど巨大な沼が出現するのです。  そして、瞬く間に消えてしまうのです。 私はこれに名前を付けています”さまよえる湖、幻の北大湖”これを見た者(新…
東日本大震災体験記|ziny 随想

東日本大震災体験記|ziny

※注 本稿は大夕張における『1968年十勝沖地震』の投稿中に『附録』として記載されていたものです。   平成23年(2011年)の3月11日は都心のエレベーターの中での地震を経験しました。   いやぁー、本当にすさまじかった。無事の今思うと貴重な体験でした。    15:00の約束で先方に向かいエレ…
1998年 大夕張 閉鎖の頃|飯田雅人 随想

1998年 大夕張 閉鎖の頃|飯田雅人

    昨日の北海道新聞夕刊に『鹿島の施設 水没で閉鎖』という見出しで、小さな記事が出ていました。  内容は、住民の移転がほぼ終了し、鹿島連絡所が9月29日で閉鎖され、10月末には、夕張署の鹿島駐在所も閉鎖されるというものでした。   6月に私が大夕張に行った際には、鹿島連絡所は、4月から火曜日のみ…
学び舎に思う 随想

学び舎に思う

  どこにいっても 忘れないのは坂道です。   われらの学校生活を  象徴するように  曲がりくねっている   急ごうものならひどく息切れして  学校の白い壁の横まで 登り詰めた時  ふりかえると   カブト虫の行列のように  行儀よく土にへばりついている  明石町の炭鉱住宅が見える   山の山の …
北海道人気質と大阪人気質 | 大阪の小林 随想

北海道人気質と大阪人気質 | 大阪の小林

 昭和40年の夏、南部の貯木場の休憩所で休憩していたときの話です。  営林署員の材木の体積測定のチーム2,3人と私たち学生3人とがお菓子を食べながら雑談をしていました。  そのうち、いつも我々の世話をして下さっていたFさんが、 「小林君は大阪だね」  と訊ねられました。 「はい」 と私。   「大阪…
ペナン島の大夕張出身者|泊川俊徳 随想

ペナン島の大夕張出身者|泊川俊徳

昨年暮れに、スマトラ地震での津波でタイ近隣の島々が多大な被害があり、死者10万とも言われています。 昭和61年か、62年か、どちらの年だったか、夏の頃、鹿島小学校校庭で、二人の多分、65歳は過ぎていたと思われる 女性二人に話し掛けられました。 「終戦後、間もなく大夕張からペナン島に移住し暮らしていま…