随想

いまでも今日のことのように思い出せる。あの日、あの時の出来事。 今日につながる昔のこと・・・。

坂本弁護士の奥様について|乗田功一 随想

坂本弁護士の奥様について|乗田功一

 オウム事件で坂本弁護士一家が犠牲となるという忌まわしい事件からちょうど9年ということですが、弁護士の瀧澤秀俊さんが、この事件をテーマにしたHPを立ちあげています。   坂本弁護士一家殺害事件 5年10ヶ月の軌跡 (dti.ne.jp)    その中で「都子さんへの追悼文集」というページに、18年前…
北海道言葉と食べ方の話題|佐々木洋子 随想

北海道言葉と食べ方の話題|佐々木洋子

 私の住んでいる君津には、たくさんの大夕張出身者がいると思います。  引っ越しした当時は、同じ団地に住んでいました。  皆 家を建ててバラバラですけど・・・      さて、北海道方言と言えばたくさんありますが『うるかす』(つける・ひたす)は、標準語だと思っていました。  10数年前に、千葉県人に指…
故郷大夕張 |西村武博 随想

故郷大夕張 |西村武博

 1998年の夏  私は、道内なのでこの夏に暇がある時に何度か大夕張へ足を運びました。行く度に感じたことは、懐かしいという感情と、寂しいという感情の入り交じったものです。   大袈裟に言うと、ここでの生活は何だったのだろうかと考えてしまいます。  冬は極度に寒くどっさり降る雪。  家の裏側は、除雪を…
故郷との邂逅  |  野口美代子 随想

故郷との邂逅 | 野口美代子

 先週の13日、会社の昼休みにインターネットで遊んでいましたら、偶然、ここを拝見させていただきました。  昭和24年大夕張栄町生まれ、鹿島小学校・鹿島中学校・夕張東高4期卒業、そして上京。  閉山の昭和48年まで両親は栄町に住んでいました。   私は、昭和43年に夕張東高校を卒業して上京、そのまま東…
快い響き|池田憲治 随想

快い響き|池田憲治

 ”大夕張”(おおゆうばり) それは私のように遠く離れている者には、すごく快い響きの単語です。    私は、樺太真岡の鉄道官舎で生まれました。 「九人の乙女」の内の一人伊藤千枝は親類です。  今、私は愛知に住んでいますが、近くに住んでいる叔母は、私の家族と共に移転するまでは、樺太真岡の郵便局に勤めて…
位牌堂(地蔵堂)|内川准一 随想

位牌堂(地蔵堂)|内川准一

 建物が無くなったはずの大夕張に、この春(2002年)まで、実はひとつの建物があった。  千歳町の火葬場に至る道路脇にあった位牌堂(地蔵堂)だ。    あったと言うのは、この春、雪の重みで倒壊してしまったから・・・    中に納められていた位牌2千7百は、散乱しないよう4体の地蔵と一緒に倒れた建物ご…
緑町浴場帰りの兄 |小野美音子 随想

緑町浴場帰りの兄 |小野美音子

   「宝の沢探検」を愛した私の兄、伸也は、大人になっても仲間と川上りで秘境の滝を再発見し、日本の滝百選に応募し選ばれたり、アラスカに行き、ローカルな新聞やTVに出て、母を喜ばせる、ゴッツい山親爺になりました。   そのコワモテの風貌は、新聞屋の親戚の役にも立ち、お金を払わない客の家の玄関に、兄がヌ…
学のある話 |丸山直記 随想

学のある話 |丸山直記

 子供のころから私はクラシック音楽が好きでした。  今でもオーケストラでチェロを弾いています。  あのころ大夕張ではチェロなぞ目にすることもなかったので感慨深いものがあります。  そう言えば、中学校の音楽の先生で、上村先生がヴァイオリンを弾かれ、教えていたのを覚えています。  上村先生はその後、札幌…
七夕の思い出|工藤 央 随想

七夕の思い出|工藤 央

 明石町に昭和45年6歳時まで過ごしていた工藤と申します。  父は夕張東高の教師をしており、校門脇の教員住宅に住んでおりました。    夏場にはバレー部の顧問をしていたため、よく生徒の方が合宿といってうちに泊まりこんでいたのを覚えています。    さて七夕の思い出といえば、明石橋の上から使命を終えた…
あの町が |ヤス 随想

あの町が |ヤス

あの町が忘れられません。 初恋。 今でも覚えてます。久保田美枝さん。   間もなく人生の終わり? ・・・・大夕張を出てから何年過ぎたかな?   今でも鮮明に覚えてますよ。   自分は今では、女房、子供、孫まで居ますが、 貴女は?元気でしょうか? 多分この掲示板には気がつきませんよね?   達者なら何…
父の無念と別れ |森田伸一 随想

父の無念と別れ |森田伸一

 私は昭和37年大夕張の栄町で生まれました。  その後、春日町に引越し、小学校3年生まで大夕張に住んでいました。  今は、山梨県に住んでいます。   閉山を前に炭坑夫の父は、右目に重傷を負い失明してしまい、炭坑夫の生命を絶たれてしまいました。   鹿島を断腸の思いで、離れることになったのです。   …
こころにある故郷|長屋敏子 随想

こころにある故郷|長屋敏子

『林鉄』(りんてつ)の名前が、載っておりました。  今は亡き父母の言葉に出あったように、懐かしい言葉の響きがあります。  ちなみに母は、千年町で『喜多乃屋』の屋号で、そば屋を営んでおりました。  今も年に一度、何も無い家の跡地を訪ねます。   昭和25年頃から48年頃までの思い出が、心に刻まれており…
やまのむこうは? | 丸山直記 随想

やまのむこうは? | 丸山直記

 私は、昭和23年6月10日に緑町で生まれました。   その後、鹿島小学校の裏側の住宅に移り、鹿島小学校、鹿島中学校、夕張東高校を経て、卒業するまで18年間住んでおり、私の精神形成は、純粋に大夕張でなされました。    子供の頃は、頭の中では世界は広いのですが、実感は全く無く、周りの山々の向こうには…
鹿島小学校解体ときいて | 小林秀範 随想

鹿島小学校解体ときいて | 小林秀範

解体工事 標識 期間(平成11年11月1日~12月15日)  鹿島小学校が取り壊されるとの事、  本当に本当に・・・・・さびしいです。  今月ですか?  昨年、私は、親友2名とグランドでキャンプをしました、  今年も、と思っていたのですが、なかなか予定がつかずにいます。  親友は、田森睦夫、遠藤直樹…
私の大夕張 |菅井宏史 随想

私の大夕張 |菅井宏史

昭和33年の富士見町6丁目付近の地図に、赤い線で位置を示したもの。写真は、1997年6月撮影。木と、道の跡が残る。    思わず懐かしさがこみ上げ、『ふるさと大夕張』を見ている内に、色々と当時の思い出が蘇ってきました。    私は、昭和33年に大夕張の常盤町で生まれ、4歳か5歳の時に(昭和37年か3…
初音沢地区 |目黒則男 随想

初音沢地区 |目黒則男

  我々住民は初音沢と言っていましたが、鹿島地区の人々は官行と言っていたようです。   チップ工場、ボタ山、その麓にあった炭鉱用資材を製造する工場、そのあたりを初音沢と呼んでいました。  私の父が、炭鉱用の資材を製造する会社に勤務していた関係で、現地の社宅に住んでいました。  通学には大変苦労した記…
故郷を連想するうた | 野口美代子 随想

故郷を連想するうた | 野口美代子

 近くに住む人は気軽に、遠くに住む人も距離も時間もなんのそので大夕張へ行く。 25年会の便りを読んで私も思いは大夕張へ。  大夕張を思い出す歌のひとつに「懐かしのバァージニア」というのがあります。  ちょつと昔、流行ったので、お若い方達は、ご存じないかと思いますが。   バァージニアを大夕張に置き換…
大夕張への想い | 目黒則男 随想

大夕張への想い | 目黒則男

 昨年6月、父の病気のお見舞いのため、静岡から札幌の実家を訪れました。  そのおりに母から、 「鹿島小学校が廃校になるみたいだよ。」 と聞かされた。   続けて、 「大きなダムができて大夕張が沈むみたいだよ。」 の言葉に一瞬なんのことか、すぐには理解できませんでした。  私が18歳の頃、大夕張から札…
昭和50年代大夕張と大聖寺解体法要|KAZ 随想

昭和50年代大夕張と大聖寺解体法要|KAZ

 札幌市在住の27歳会社員です。   私も一時大夕張に住んでいたことがあり、懐かしさのあまりすべてのページを印刷し、ファイリングして飾ってあります。    諸々の事情で当時住んでいた札幌の団地から、親元を離れ祖父母の住んでいた大夕張に、私一人預けられ、そこで幼年時代を過ごしました。昭和51年頃だと思…
便所場球場 |岡本雅志 随想

便所場球場 |岡本雅志

   昭和43年8月9日。  私の誕生日に大夕張駅前のメインストリートを出て東京へ引っ越しました。   私は小学校6年の夏休みまでしか大夕張にはいませんでしたが、私の兄、姉は皆、鹿島小学校→鹿島中学校を卒業しています。  当ホームページに寄稿されている小林光志氏の紹介で、大夕張のホームページの存…