楽しかった日々 志垣太郎とラッセル車-大夕張にやってきた芸能人- 昭和47年、大夕張炭山駅。志垣太郎は、写真左から3人目。 今は南部で保存されているラッセル車や9600型のSLなども後ろに見えています。そしてその奥にはズリ山も。 このころ、こうした芸能人が機関庫に挨拶にくるとサインを置いていったようで、はじめは,ありあわせの紙にしてもらっていましたが、次々と… 続きを読む
続・大夕張つれづれ 木の摩擦熱で火を熾す試み | 高橋正朝 #24 前回#23で、鹿島東小学校時代、レンズの焦点で、紙に火をつける試みを書き込んだら、それに対する飯田さんのコメントだと、やはり大夕張の少年時代、同じことをやっていたんですね。 この、虫眼鏡のレンズの焦点で紙に火をつける試みは、他の少年たちもやっていました。 しかし、どういうわ けか、近所や… 続きを読む
食憶 食憶(エピソード1)|長谷川潤一 先日、ちょっと息子の夏休みに同調して、家族で釧路方面に行ってきました。 和商市場で、鮭やイクラなどを買い込み、帰りの車の中で筋子にまつわる話をしました。 それは、採炭で先山をやっていた父のお弁当のおかずのことです。 父が現場に持っていく弁当のおかずの定番に、筋子がありました。 毎月14日の… 続きを読む
思い出の記 湯浅純治先生のこと |Kawauchi Masami 湯浅先生との出会い 鹿島小学校で、湯浅先生を初めて見たのは 3年生から4年生のクラス替えの時です。 私は1・2・3年生の3年間、女の佐藤良子先生でした。 その年、私は4年桜組で、校舎は、新校舎3階建ての1番下の一階でした。 職員室は2階か3階でした。私達は、玄関の横のクラスでした。私達は入り… 続きを読む
陳列棚 鹿島小学校表札 鹿島小学校の門柱に取り付けられていた表札です。小学生の頃、あの二つの巨大に思えた門柱の間を通って学校に通いました。 平成9年(1997年)鹿島小学校の郷土室で撮影しました。門柱が取り壊された時に外されたものか、二つに折れて傷つきながらも残されていました。 刻まれた『夕張市立鹿島小學校』の文字 ↓… 続きを読む
思い出の街角 桜ヶ丘 3号つり橋 昭和30年頃 白黒写真に着色した画像 この写真の橋は桜ヶ丘開拓地(シューパロ湖駅対岸)と大夕張方面を結ぶ橋だっだようです。昭和32年まであった鉄道の『農場前臨時乗降場』から、この橋を渡って対岸に渡ることができました。 奥鹿島には、1951年に鹿島開拓団が設立され、入所後、つり橋を建設し共栄橋と名… 続きを読む
パノラマ 夕張岳と芦別岳 『ふるさと大夕張』には、未掲載だった写真。三枚の写真を切って貼り合わせて作ったパノラマ写真。昭和40年前後に撮影された写真。 黄ばみ、ふるさの目立つ写真だけれど、撮影者もきっと目にしていたであろう、青い空と、白い雪のコントラストがまぶしく目にしみる風景が、目に浮かぶ。 左手下には、三菱大夕張炭鉱の… 続きを読む
随想 鹿島小学校の応援歌|内川准一 以前から思っていた応援歌の疑問が解けました。 鹿島小学校の応援歌は二つあります。 昭和36年の文集 「松風」 を見ますと、「運動会が6月4日に決まった。」とあり、続けてクラス担任が、 「歌詞が難しすぎて、意味が分からず、練習が前に進まない。」 と嘆いているのが笑えます。 以下はその応援歌… 続きを読む
炭鉱とともに ヤマの男たち 昭和30年代前半 白黒写真に着色した画像 岳富町の辺りを炭労の旗を先頭に千年町方向に進んでいます。 賃金闘争。大夕張炭鉱労働組合の赤い旗を先頭に、『1方80円要求貫徹』の要求を掲げています。 背景には、左手から鹿島小学校の旧校舎や、泉町の住宅、消防から、緑町の住宅まで。 後ろには、昭和3… 続きを読む
交通関係 三菱バス パンフレット 昭和40年頃 観光事業PRのために製作されたらしい。見辛いが各営業所等の住所なども入っている。 三菱バスパンフレット 【奥山道紀】(2021年1月16日) 三菱鉱業美唄鉄道事務所大夕張営業所が、夕張市で一般貸切旅客自動車運送事業免許認可(札陸自認第618号)を受けたのが道路開通の約半年後の1963(… 続きを読む
思い出の街角 昭和20年代 大夕張駅前 昭和25年頃の駅前通り。 白黒写真に着色した画像 労働文化祭の横断幕が見える。人出が多い。 大夕張の駅前通り。この場所からの撮影も定番。 左手に郵便局。昭和9年に大夕張駅前に新築移転した。この後、昭和29年に新しい局舎が建てられることになる。 右手には緑町の詰所。緑町詰所の後ろには、『十八番食… 続きを読む
思い出の記 大夕張のバンドブーム | Kawauchi Masami うたた寝をしていると、ラジオから長渕剛の『乾杯』が流れてきました、1980年の曲です。 私は、1977年結婚したので、『乾杯』の詩が、なんか重なるような、気がします。 大夕張で知り合い、南部で大きな舞台に立ち、2人で歩き始めた道。色々な事がありました。ほんと、色んな事あったな〜。 協和会館別… 続きを読む
思い出の街角 読売新聞大夕張通信部 (千年町) 取り壊し前の読売新聞大夕張通信部 読売新聞大夕張通信部 【奥山道紀】(2001年10月01日) 大夕張が炭鉱で賑わっていた頃には、会社の社報や労働組合の機関誌を始め、各文化サークルの会報など、色々な出版物が発行されていました。 読売新聞の販売所は大夕張通信部を兼ねていましたが、所長の高橋勇治… 続きを読む
続・大夕張つれづれ 雪の結晶と雪印のロゴマーク |高橋正朝 #23 大夕張で生まれ育った人だけでなく、北海道生まれの人にとっては、雪印乳業のロゴマークには懐かしさを感じると思う。 北海道生まれの大企業だから、ということよりも、雪の結晶に懐かしさを感じるのだ。 北海道生まれの企業ではあるが、本社は東京四谷にあり、東京在住者は知っていることだが、夜間、中央線… 続きを読む
楽しかった日々 だっこさせて! 昭和31年頃 富士見町5丁目線路そばの住宅の前で 白黒写真に色付をした画像 近所の女の子が「赤ちゃんを見せて」とやって来て、物干しの下で 抱っこ 小さい頃の思い出【飯田雅人】(2020年2月15日) 大夕張の思い出は遠い夢の中の出来事に等しいものがあります。 近所の「いとうたえこ?」ちゃんといったで… 続きを読む
学び舎の思い出 昭和47年 夏 登校風景 夕張東高等学校 昭和47年 7月 登校途中の学生達。明石町駅(右手下の建物は購買会で、明石町駅はそれより右手)から、高台の夕張東高に向かう学生達の列が続いている。 白黒写真を補正の上、着色した画像 夕張東高閉校記念誌から ↓昭和30年代の明石町はこちら https://ooyubari.com/2021/01/16… 続きを読む
学び舎の思い出 昭和10年代 冬山スキー行事 昭和10年代、大夕張でただ一つの学校だった、大夕張尋常高等小学校。 戦時体制が進む中、名称も昭和16年(1941年)大夕張国民学校へ、そして昭和17年(1942年)には、鹿島国民学校へとかわる。 白黒写真に着色したカラー画像) 三代目校長の伊沢豊久校長(在任:昭和9年~19年)の姿もある。(左か… 続きを読む
運んだ、石炭を人を 列車を降りて 『1960年(昭和35年)列車折り返し運転』のなかから。線路脇の崖の崩落により列車をのりかえ通学する高校生たちの姿を写した5枚の写真のうち、「1 列車を降りて」の写真に着色したものです。 ↓白黒写真はこちらのページ。 https://ooyubari.com/2020/07/23/taimusur… 続きを読む
思い出の街角 シューパロ湖駅と記念行事 白黒写真に着色した画像 昭和37年(1962年)開業 ~ 昭和44年(1969年)廃止 昭和37年、大夕張ダムの完成とともにできたシュ―パロ湖は、湖と夕張岳を望む風光明媚な観光の場所として期待されていました。シュ―パロ湖駅は高台にあり、湖水に面したホームからは、シュ―パロ湖と夕張岳、そして、三弦橋… 続きを読む