思い出の街角 昭和35年 鹿島小学校 大夕張神社に登る坂道で途中息が切れて、苦しくなると、必ず休むのが一つの目の曲がり角。 その昔は、そこから上に登る道があって、もう一つ神社があったらしい。むかし「乃木神社」、時代が下って「おばけ神社」と呼ばれていたというはなしもある。(それぞれ、”乃木神社” ”おばけ神社” で検索すると関係の文章がで… 続きを読む
随想 雪虫(ユキムシ)|西山正男 今日、一人で家に居る時に 「雪虫」を思い出しました。🤔 雪が降り出す直前に降って来る「雪虫」 本当に美しい故郷大夕張です😂 (2020年1月8日 記) 晩秋 10月半ばから11月にかけて あらわれる 冬の使者 髪についたり ヤッケに止まったり あけてる口に 飛び込んできたり 油断ならないやつだが… 続きを読む
写真 沈みゆく大夕張ダム|高橋歌子 平成26年(2014年)3月4日からの夕張シューパロダムの試験湛水から何日目かに、夕張シューパロダムの天端から撮った大夕張ダムの写真です。 右側に三弦橋に続くトンネルが見えています。 平成24年(2012年)3月 夕張シューパロダム試験湛水 … 続きを読む
雪催いの町 雪催いの町 (映像編) | 山吹とおる 人の群がっていた この町(炭鉱)は みんなの中で 大きな町でした 抜け殻のように 寂れた町になりました 泣きながら 夜を過ごし 泪は頬にながれ落ち 川の流れに あなたの町も 大きな湖(うみ)になりました みんな歩いた道 今はない 大きく高く 積まれた炭の丘(やま) 荒れ果てた町は 今も寂… 続きを読む
雪催いの町 雪催いの町 第三章(映像編)|山吹とおる 朝陽(あさひ)輝いている 風がふく 川が流れて 栄えた町でした 夜明けまで声上げて みんなで祭りを叫んでた 悲しんで腕をのばし ホームの道(かべ)に崩れ落ち はしゃいで笑った雪催(ゆきもよ)いの町も 大きな湖(うみ)になりました https://youtu.be/6iqK3ZuTdPA (新)白… 続きを読む
雪催いの町 雪催いの町 第二章(映像編)|山吹とおる みんな歩いた道 今はない 大きく高く 積まれた炭の丘(やま) 荒れ果てた町は 今も寂しく曲がって枯れました ああ 叫びを嘲笑(あざわら)うように 都会の人は悲しんだ 川のうねりに 沈みゆく町 女は湖(うみ)に泣きました https://youtu.be/4nCztnf4zbM 2003年雪の緑町… 続きを読む
雪催いの町 雪催いの町 第一章(映像編) | 山吹とおる 人の群がっていた この町(炭鉱)は みんなの中で 大きな町でした 抜け殻のように 寂れた町になりました 泣きながら 夜を過ごし 泪は頬にながれ落ち 川の流れに あなたの町も 大きな湖(うみ)になりました https://youtu.be/XAjvK7_40C4 春日町越しに磯次郎の沢を望む… 続きを読む
続・大夕張つれづれ 鹿島小学校と鹿島東小学校の学級数|高橋正朝 #65 先日、田中( 旧姓 )敏子 さんと、久しぶりに電話で話した。 彼女は鹿島小学校の出身で、私は東小学校である。 彼女とは、鹿島中学校の1年 F 組で初めて同級生になり、入学時には、私の前の席に座り、その隣席は、苗字だけしか覚えていないが、小池 という女子生徒で、やはり鹿島小学校出身だっ… 続きを読む
雪催いの町 雪催いの町|山吹とおる 雪催いの町 詩・曲 山吹とおる 人の群がっていた この町(炭鉱)は みんなの中で 大きな町でした 抜け殻のように 寂れた町になりました 泣きながら 夜を過ごし 泪は頬にながれ落ち 川の流れに あなたの町も 大きな湖(うみ)になりました みんな歩いた道 今はない 大きく高く 積まれた炭の丘(… 続きを読む
昭和 1980年(昭和55年) 3月 31日,聖心幼稚園廃園(s49年度園児38名)。 鹿島小放送施設新設替4月 1日,鹿島東小第6代今井欣一校長。 奥鹿島分校児童数1となり,教員定数も1となる。 鹿島中第10代工藤善一校長。 >大夕張保育所開設。8月 鹿島中,第4線校舎(製図室,柔道室)の壁撤去通し教室に改造,第3便所改修。10… 続きを読む
記念の日 結婚の日 その一 私の父飯田孝と、母長谷川彌惠子(みえこ)は、昭和29年(1954年)10月に結婚した。 父は、栃木から東京の薬科を出て身一つで大夕張にやってきた。母は、教員家庭の9人姉弟の長女として大夕張に暮らし、病院の事務室で経理をしているときに、父と知り合い結婚した。 結婚のことは、ほとんど聞いたこともなく、父… 続きを読む
思い出ばなし 遙か遠い大夕張 |KM 明石町で生まれ、小学5年生まで鹿島東小に通っていました。 小学2年生頃までは、千年町まで汽車で通学していましたが、その後徒歩で通学してました。 今、思い返すと片道3キロ以上を、ひたすら歩いて通学していたんですね。 常盤町を過ぎると、明石町までは、人家も何もない砂利道を歩いて通学するのが当… 続きを読む
あらかると 大夕張鉄道敷設案 昭和4年の(北部)大夕張開鉱以前、北部大夕張の炭田の有望なことが明らかになり3本の専用鉄道敷設案が検討された。 大正7年(1918年) 7月、三菱鉱業が北部大夕張(鹿島)を調査し始める。 北部開発第1次案として『北部大夕張-万字間』鉄道調査。 万字の石川呉服店を根據として調査を開始するも急坂… 続きを読む
随想 神戸田舎者物語 | 斎藤敏幸 所用があり、昨日神戸へ行き、その夜、同級生の加藤(旧姓)美代子さんに会ってきました。 彼女は、僕と同じ栄町ブロックに、新築時から入居し、18になって大夕張を後にするまで、上と下に住んでいました。 小学校から高校まで一緒で、幼なじみというよりは、兄弟姉妹の感覚で付き合ってきました。 中学・高… 続きを読む
学び舎の思い出 三菱(鉱)バスにのって シューパロ湖畔へ 鹿島東小学校遠足 昭和42年頃、シューパロ湖畔の公園。 児童の後ろに見える遊具の回旋塔も懐かしいタイプだ。 鹿島東小学校(当時一学年2学級)の遠足だったそうだ。 三菱バスに揺られて大夕張から遠足にいった先での集合写真。 バスにつけられている愛称、左『はまなす』、右『くろゆり』と読める。 白黒写真に着色した… 続きを読む
思い出ばなし 鼓笛隊 |石原賢治 思い出帖の中に鼓笛隊の写真が掲載されています。 私も、昭和43年当時所属していました。 確か4年生から入部出来たのではないかと思います。 低学年の頃は、運動会ですとか、何かの行事ですとかで、パレードする姿を見て、とてもまぶしい気持ちで眺めていました。 子供心ながらに、クリ-ム色のベレー… 続きを読む
あらかると 三菱、大夕張炭坑買収のころ 手元に昭和41年8月1日発行の大夕張炭鉱労働組合『二十年史』がある。労働組合が記述した労働者の歴史、とはいってもかたぐるしくなく、読み物としても面白い記述が多い。時代の雰囲気や、様子がわかる部分を抜き書きしながら、ここに書き留めていきたい。 以下は、明治末期、資本参加していた三菱が、大正五年… 続きを読む
楽しかった日々 昭和40年 バス旅行 その2 『昭和40年バス旅行 その1』の写真と同じ昭和40年8月14日の写真。 写真の三菱バスの後部には『シューパロ』と名前がつく。 白黒写真に着色した画像 「シューパロ」と書かれた車体と、休憩中の運転手とバスガイド 当時、三菱バスの貸切車には愛称名がついていた。 『三菱(鉱)バスにのって』の写真で… 続きを読む
楽しかった日々 昭和40年 バス旅行 その1 昭和40年8月14日 日付はちょうどお盆の頃、団体旅行だろうか。途中、休憩中の一コマ。 小学生から中学生の顔も見える。 白黒写真に着色した画像 バスガイドさんをはさんで?運転手さんと打ち合わせ中?… 続きを読む
写真 コスモス(秋桜)の種(タネ) 時々、大夕張の写真を見ていると、白黒写真ではあるが、軒先にコスモスの花らしいものが映り込んでいるものある。 それらを見て思い出した。 庭先に植えていたコスモス。 普段何気なく道を歩いていても見かけて、ほとんど意識もしなくなっていたが、大夕張の家の畑や庭にたくさん咲いていた。 コスモスの色は何… 続きを読む