「九人の乙女」と開拓吉田さんの思い出 | 小野美音子

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 三菱君を書いて下さった楽しい斎藤様の家では、当時受信料が三百数十円程かかったのではないでしょうか。

       
 私の母は堀田牛乳店の月々の支払いがほぼ同額だったので、TVと牛乳どちらにするかと迷いましたが、キャラメルの箱の大きさまで比べてしまう子供達を見て、TVをあきらめました。

 
 エンゲル係数が超高の我が家は毎週、卵三十個、野菜、季節になると苺、小豆やささげ豆一斗〔約14kg〕ずつ開拓農家の吉田さんのおばさんが運んでくれ、購入しました。

 

 重い荷物を背負ってくるので、我が家でのお茶飲みを楽しみにされていました。

 

 茶飲み話には亡くなった娘さんの話がよく出てきました。

 
 稚内の「氷雪の門」の隣に「九人の乙女の碑」があります。

 
 終戦の5日後、昭和20年8月20日、戦時下の樺太真岡郵便局を必死に守り抜き、電話交換業務を終えた9人の乙女が自ら別れの長い電文を打ち自決しました。

 
 その中の一人が吉田さんの娘さんだったのです。

 

 「娘が可哀想だったんでさあ・・、青酸カリを飲んだんだよ・・・」

 
 「一緒に樺太から引き揚げてればねえ・・・時代がねえ・・・」

 
 私にとっては驚きの、しかし、娘さんの死から15年以上経っていたせいか淡々と話す、おばさんの声はまだ耳に残っています。

 
 長男の方は東小の先生で、ヨチヨチ歩きの時の私を可愛がり、追いかけっこしてくれたそうです。

 
 跡取りの息子さんには購買会でも評判の良い働き者の娘さんがお嫁にこられ、おばさんが喜んでいました。

 
 一番下の息子さんは、高校生になるとおばさんの代わりに配達を手伝っていました。私はこの爽やかなお兄さんが大好きで夏の暑い日、母が

「お風呂に入っていけば?」

とお兄さんに勧めると、私と一緒に入ってくれて嬉しかった記憶があります。

 多分四,五才の頃だったと思います。札幌の市役所に入られたと聞いています。

 

 この思い出も大夕張年表の「開拓団長吉田藤之助」の記述を見て蘇りました。

 

 昭和26年12戸で開墾を始め、つり橋建設や農耕馬5頭の導入。

 電力供給は7年も後の昭和33年との事です。

 
 ここでも頭の下がるような御苦労をされた方々のいらっしゃった事がわかり、感慨をいっそう深めております。

 

(1999年4月13日 記)


随想

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