宝町 標語塔と住宅

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1990年代、夏。

すでに炭鉱はなく、立ち退き間近な平成の頃。

 

宝町から岳富町へ続く緩やかな坂道の入り口ともいえるこの場所。

 

昭和43年の住宅地図や航空写真によれば、ここは宝町一丁目。炭鉱住宅が6棟建っていた。

 

 

かつて、ここの狭い空き地で三角ベースの野球を毎日のようにやっていた子どもたちがいて、それを下校途中の一人の鹿島中学校の生徒は、毎日のように目にしていた。

  

昭和45年(1970年)頃の日常。

   

この場所から宝町に入り込んで、崖の方に出てシューパロ川の流れを見下ろしたり、住宅のそばの軒下をかいくぐって大きな通りに抜けていったこともある。

 

上で1990年代と書いたが、写真の撮影年度は不明、『鹿島で暮らした日々 大夕張』(平成9年刊)で『宝町』として紹介されていた。

  

いずれにせよ閉山後だいぶたってからのものだろうけれど、建っている住宅はこのころまでもかわらず残されていた。

 

 

宝町の標語塔と残る住宅

 

昭和47年頃の宝町

 

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