〘 ボーイズライフ 〙の何月号だったかまでは覚えていないが、手塚治虫へのインタビュー記事が載っていたことがあった。 そのなかで、手塚治虫は、『 劇画はやがて滅びる 』という趣旨の記事があった。 実際は、劇画は滅びるどころか、3〜4年後には、劇画が隆盛するようになった。 劇画だけではなく、色…
家を埋め尽くすほどの雪が降った夜。 次の日、屋根の上には新雪が積る。 地面に積った雪と屋根からなだれ落ちた雪がつながってしまう・・・。 晴れた日には、そこは子どものスキー場と化す。 昭和35年(1960年)頃、場所不明。 白黒写真に着色した画像 https://ooy…
ノルディックのスキー大会。 礦業所の職員慰安行事の一つだったのだろう。様々な行事が行なわれていたスポーツ大会の一つ。 スキー場前の富士見町1丁目の山側の道路をゼッケンをつけた参加者が鹿島小学校グラウンドの方向に進む。 どんなコースだったのだろうか。 昭和40年頃と思われる。 白黒写真…
大勢の子どもたちでにぎわう富士見ヶ丘スキー場。 大夕張の『スキー場』 小学校の中学年頃までは、ロープにつかまって中腹まで登るとそこから滑る子が多かった。 そこから上の尾根上までの急な斜面から滑るのは上級生・上級者という印象だった。 右手にジャンプ台があり、その横の斜面ではアルペン用のポー…
はじめ『平成15年の大夕張駅前通り』のタイトルにしようとして、止めた。 想起させるものは何もない。 頭の中の記憶で補うことで、初めてそこがかつて商店街が建ち並ぶ駅前通りだったと想像できる。 平成15年(2003年)の大夕張。 『大夕張駅前』のタグで見てきた大夕張張駅前からの2003年の姿。…
スキー場・・・ 懐かしいです。 ロープを掴んで中腹まで登るわけですが、当時は毛糸の手袋の為、滑ったりして、ロープを脇に抱えたり。 ロープを抱えると、防寒着が絡まってしまい、リフトの安全装置にぶつかって停止させる子が結構いました。 ロープを抱えられると、その前後の人のロープが大変重たくてよく大…
『大夕張の鳥たち』で、大夕張に住んでいた鳥の名前を紹介した。 少年時代、当時の暮らしの中で自然のBGMとして聞こえていたこれらの鳥たちの鳴き声は自然のBGMだった。 当たり前すぎて何という鳥が今鳴いたのかなどと、意識することもなく考えたこともなかった。 翻って現在の生活の中で、家の周辺で、鳥の鳴…
〘 ボーイズライフ 〙は、〘 小学館 〙が発行した月刊誌だった。 私が、鹿島中学校の3年生のときに出版された。 ネットでチェックしたら、1963年4月から1969年8月まで発行されていた。 雑誌関係の出版は、すでに月刊誌から週刊誌が主流となっていたが、そういうなかにあって、〘 ボーイズライフ…
昭和5年(1930年)頃の『撰炭場』の写真に着色して、カラー化したもの。 元になった絵葉書はこちら https://ooyubari.com/2023/12/21/s5sentan/…
雪まつりと言えば、今や札幌の代名詞ですが、大夕張でも雪祭りがありました。 鹿島小学校の校庭で雪像を作っていました。 昭和35年前後が、一番盛んだったようです。 栄町が住んでいた人たちも多いので、雪像を二基作っていました。 栄町の雪像はけっこう大きかった事を覚えていますが、昭和…
代々木町の長屋の一番端っこの家のすぐ横に、石炭だったり、スコップがあったりした物置がありました。 古い作りのカビ臭い物置でした。 スコップや工具があり、時々、宝物探しにゴソゴソ探っていました。 明かりとりの窓もキチンとありました。 あるとき、そこに『アオダイショウ』がでました。…
昭和45年頃の大夕張礦業所の工業地帯。 たくさんの数の工場や施設があり、拡大して眺めると飽きない。 『索道ヨリ工場地帯ヲ望ム』と同じ視点の40年間の発展を示す写真といってよく、礦業所の北側から、工場地帯、住宅地の方まで俯瞰する。 写真右端にうつる礦業所事務所越しに炭砿病院、栄町アパート…
全140ページに鹿島の歴史が詰まっている。 【目次】 第一章 鹿島の歴史 1.夕張日記から 2.砂金について 3.伝説あれこれ 4.大夕張の夜明け 5.石炭について 6.奥鹿島の開拓 7.閉山について 第二章 鹿島の地形 1.地形 2.山岳及び河川 3.地…
シマエナガ・・・、そういえば数年前からよくその名を聞くようになって、かわいらしい姿がデフォルメされて各種グッズになって販売されていたことを思い出した。 白く丸くて、尾がすらりと伸びた姿は美しく、特に正面からの姿は愛らしい。 大夕張にもいたんだろうなあ、とあらためて思った。 https://y…
これは、〘 講談社 〙の〘 少女クラブ 〙に連載していたマンガで、〘 フイチンさん 〙の日常生活で起きる様々な事柄をマンガにしたものだった。 女性マンガ家は、〘 長谷川町子 〙と〘 上田トシコ 〙、それに、〘 みつはしちかこ 〙しか知らなかった。 〘 長谷川町子 〙は、数ページのマ…
「がんがん」 飯田さんの『正月の餅』の中に出てくる「がんがん」で、くっきりと思い出しました。 正月のもちの入れ物、蓋付き一斗缶、お菓子入れの「がんがん」 なつかしや、我が家でも確かに使っていました。 切り餅は、鏡餅やあんころもちとは別に、のした後、なるべくおなじ大きさになるよ…
斜坑人車で坑口へ 停車するのももどかしく 残りわずかな斜坑を駆け上がる。 そこにはいつもと変わらぬ 陸(おか)の風景が・・・ ガスと落盤の恐怖から 開放された喜びを 感じるのです。 生活の手段とはいえ 青春真っ盛りを そんな環境にぶつけてすごしてきたのが 今思え…
昭和36年12月28日。 この日、祖父の家での餅つき。 祖父は、当時富野小学校に隣接する校長住宅に住んでいた。 玄関から入ると、左手に台所兼土間、右手に茶の間という間取りになっていた。 その土間で行なわれた餅つきだと思うが、土間はそれまで大夕張で見たことがなかったような広さがあった。 …
昭和36年5月。 草の上には雪が未だとけ残る。 白黒写真に着色した画像 昭和36年頃 三菱大夕張炭砿病院職員写真 父と炭鉱病院【飯田雅人】 三菱大夕張病院は薬剤師であった父の職場でした。私は小さかった頃,富士見町6丁目下の病院とは目と鼻の先の線路をはさんだ公園のそばの家に住んでいました。 父…
以前紹介した『修了級会(昭和18年)』は、鹿島国民学校高等科13期生のものだったが、こちらは、『鹿島国民学校15期生』のものだ。 昭和19年3月に高等科を卒業した方々。卒業して5年ほど経った昭和23年(1948年)頃の級会(今でいう同窓会)の時に撮影されたようだ。黒板の上に『第15期生 祝級』と掲げ…