食憶 食憶(その6 三尺鯉)|長谷川潤一 川の大物話を食憶にからめましてひとつ・・。 緑町にいた親戚のおじさんがなかなかの釣り名人でして、五月のダム増水の時期に、三尺モノの鯉を釣ってきました。 一メートル以上の大物を釣ると、シューパロ湖の主みたいな紹介で、写真付きで新聞に載ったものですね。 さっそく長屋に野次馬根性で見に行くと、大き… 続きを読む
随想 「奥鹿島分校の歌」の作詩者|浅野岳男 「奥鹿島分校の歌」の作詩者浅野明信氏について。 奥鹿島分校の歌、作詞は次兄浅野明信です。 この度、曲に耳を傾けながら、在り日しの次兄に想いを巡らし、作詞に目を通しました。 奥鹿島分校の歌 奥鹿島分校の歌 (浅野明信 作) (一) まばゆく 朝日を あびている 夕張岳の 山すそで 元気に育… 続きを読む
続・大夕張つれづれ 氷の下面の曲線模様 | 高橋正朝 #26 我々団塊の世代の少年時代、晩秋のころ、すなわち、10月になると、日中、道路に溜まっていた水が夜の間に氷になり、朝、その氷をバリバリと音をたてて踏みつけながら、鹿島東小学校に登校した。 氷ができる、とはいっても、午後には融けてしまい、翌朝になったら、また氷ができている ••••••。 そ… 続きを読む
随想 小生の家の小さい果樹園 |ノリ 佐々木 小生、大夕張の思い出のカリンズ・グズベリ、グミ等の果樹を、小さな庭に植えて、当時を懐かしんでおります。 霜が降りたら「コクワの実」が丁度、美味しく、良く近所の悪ガキと一緒に、便所場球場の山に、収穫に行きました。 他に、山葡萄、胡桃等も取りましたね。 内緒ですが(時効?)、弥生町の端の坂道の下… 続きを読む
食憶 食憶 (番外編「CM」)|長谷川潤一 CMといえば、大夕張鉄道の車内でロケをした、三菱グループのCMを思い出します。 HBCでやっていた、朝のワイド番組でながしていたもので、外人さんが客車に乗ってきて、他のお客さんと何か話しをしようとしたところ、みんな驚きとまどって顔をそむけるように避けてしまう。 外人さんは、気持ちも言葉も通じず… 続きを読む
随想 夕張市の鹿島とは|あさのたけお 12月24日21時に、関東地方のテレビ局「テレビ朝日」で、映画「北の零年」が放映されるようです。 物語は、明治維新に生きた先人の、大切な歴史上の物語です。 しかし、大夕張住人にとって懐かしい場面が、蘇ることでしょう。途中に夕張岳が映像画面に出てきます。 葬式場面は、冬の凍ったシューパロ湖にて… 続きを読む
思い出ばなし 乙女の姿・・・ |ziny この寒い時期は家の中で遊ぶことが多く、昔、お正月はカルタ遊びで過ごした方も多いと思います。 我が家では、よく百人一首をしました。 また、町内会対抗試合にも、出さされ、詰所の冷たい畳の上で戦いをした記憶があります。 1チーム3人で、攻め(5,6枚)、中堅(15枚くらい)、守り(30枚くらい)で… 続きを読む
思い出ばなし 百人一首 |石原賢治 定番の『全国共通かるた』ですが、九州出身のわが家にあったものは、読み札に、公家だの、姫様だの、坊主などの作者の絵がかかれていまして、『坊主めくり』などという、お坊さんには大変失礼な遊びをしていました。 裏にした読み札を、順番に1枚ずつめくり、坊さんを引くとそれまで貯めた札を出し、お姫様が出るとそ… 続きを読む
思い出ばなし 私の断片的記憶|たいこのもりお 時々、大夕張の事を思い出します。 はっきりとした事や、断片的な事や、曖昧だったりですが、投稿させていただきます。 昭和30年代の半ば、鹿島小学校のグランドにサーカスが来て、バイクの曲乗りをした。 冬はグランドに雪像がたくさんあった。 緑町の2丁目に、八木さんという床屋さんがあって、そ… 続きを読む
続・大夕張つれづれ むろ( 室 )|高橋正朝 #25 我々の年代が、大夕張に住んでいた少年時代は、厳寒期になると野菜が不足した。 ちょうど、今ごろの時期てすネ。 しかし、栄養失調の話は聞いたことはなかった。 実際は、栄養失調に陥った人はいたかもしれないが、子どもだったがため、単に、社会のできごとを知らずに過ごしたのかもしれないが ••••••。 … 続きを読む
思い出ばなし 牛乳配達のアルバイト|花田勝則 堀田牛乳では、小学生の頃、何年か牛乳配達のアルバイトをしていました。 夏場はリヤカーで、あるいは自転車で、冬場はそりに乗せて、配達してました。 冬場は、明け方3時・4時の配達で、牛乳が凍らない内に配達しなければなりません。 一度に沢山積んで出発出来ないので、何度か堀田牛乳店に戻っ… 続きを読む
食憶 食憶(その5 木箱の中身)|長谷川潤一 大夕張の暮れは、すっぽりと雪の冬でした。 この時期ならではな物を、ちょっこといきたいと思います。 まず「リンゴ」。 幌掛けのチェーンを撒いた小型トラックに拡声器がちょこんと載っかっていて、「青森から来たさ」という眼鏡のおじさんが、お国訛りで売って歩いてました。 あの長方形の板作りのリンゴ箱… 続きを読む
思い出の記 夕張そして札幌へ|Kawauchi Masami 昭和29年6月2日、 父 河内正雄 、母 君江 の三男です。 氏名 河内正三(まさみ)、 南清水沢で、産ぶ声をあげます。 父は、大夕張鉱業所に働いていましたが、住宅が当たらない為、寮に入っていたと聞きました。 私が2歳の時、緑町に住宅が当たり、そこから18歳までの大夕張生活でした。 18歳… 続きを読む
食憶 食憶(その4 小学校の給食)|長谷川潤一 斎藤さんのところで鹿島小学校の解体の写真は、みんなショックだったという話になり、鼓笛隊などの思い出話をしました。小学校にちなみ、給食の話しなどを。 ちょうど私どもが入学の折りに給食は始まりました。 一年生から給食を食べたというのは、私どもからということらしいです。当然今と違って自校式ですからし… 続きを読む
食憶 食憶(その3 「へ」の字)|長谷川潤一 初雪、初氷、夕張岳にも白い雪が・・という時期になると思い出すものは何か? そうです、漬け物です! 紅葉が進むと、あちこちの長屋の壁や洗濯物の物干し竿に、ずらーっと掛かっていたダイコンです。 縄で一本ずつ丁寧に縛られて、長屋の間にユラユラ、ブーラブラと山間の早い西日の中で揺れていました。 そ… 続きを読む
食憶 食憶(その2 食堂のお話)|長谷川潤一 一回目の投稿からだいぶ間が延びました、のびついでの話でラーメン話を。 当然のこと、池田屋さんは幅広いメニューでメジャーでした。 思い出すのは、薄口色のスープのラーメン、ゆで卵などを抜いた「かけラーメン」、値段を抑えた「学生ラーメン」。 そして永遠に忘れられない味なのが、たこ頭型の銅板焼き饅頭… 続きを読む
続・大夕張つれづれ 木の摩擦熱で火を熾す試み | 高橋正朝 #24 前回#23で、鹿島東小学校時代、レンズの焦点で、紙に火をつける試みを書き込んだら、それに対する飯田さんのコメントだと、やはり大夕張の少年時代、同じことをやっていたんですね。 この、虫眼鏡のレンズの焦点で紙に火をつける試みは、他の少年たちもやっていました。 しかし、どういうわ けか、近所や… 続きを読む
食憶 食憶(エピソード1)|長谷川潤一 先日、ちょっと息子の夏休みに同調して、家族で釧路方面に行ってきました。 和商市場で、鮭やイクラなどを買い込み、帰りの車の中で筋子にまつわる話をしました。 それは、採炭で先山をやっていた父のお弁当のおかずのことです。 父が現場に持っていく弁当のおかずの定番に、筋子がありました。 毎月14日の… 続きを読む
思い出の記 湯浅純治先生のこと |Kawauchi Masami 湯浅先生との出会い 鹿島小学校で、湯浅先生を初めて見たのは 3年生から4年生のクラス替えの時です。 私は1・2・3年生の3年間、女の佐藤良子先生でした。 その年、私は4年桜組で、校舎は、新校舎3階建ての1番下の一階でした。 職員室は2階か3階でした。私達は、玄関の横のクラスでした。私達は入り… 続きを読む
随想 鹿島小学校の応援歌|内川准一 以前から思っていた応援歌の疑問が解けました。 鹿島小学校の応援歌は二つあります。 昭和36年の文集 「松風」 を見ますと、「運動会が6月4日に決まった。」とあり、続けてクラス担任が、 「歌詞が難しすぎて、意味が分からず、練習が前に進まない。」 と嘆いているのが笑えます。 以下はその応援歌… 続きを読む