思い出の記 八百五十スキー宿泊 |Kawauchi Masami 大夕張から、八百五十山頂。赤い線は、神社裏からの尾根伝いのルート。冬に八百五十のゲレンデに行くには、鹿島小学校裏から、宝の沢に沿ってのルートがあった。八百五十のゲレンデは、山頂直下の急斜面の下の緩やかな傾斜地だった。その傾斜地の途中にヒュッテがあった。 (目 次) 準 備 出 発 山小屋… 続きを読む
思い出の記 昭和44年 修学旅行の思い出 | Kawauchi Masami 昭和44年(1969年)6月、鹿島中学校修学旅行。 車内に入って来た、担任の西田先生です。 私たちは、層雲峡、川湯温泉、阿寒、原生花園などへ行きました。 友達が、川湯温泉だったと思いますが、温泉のお湯を飲んでしまい、次の日、声が出なくなってしまった事が有りました。 原生花園へ行った時、オホー… 続きを読む
随想 トルコ | 古山園美 10年前、初めてトルコに行きました。 かの有名なカッパドキアにある町に行った時、『大夕張の匂い』を感じました。 それは、街じゅうでたく、石炭のにおいだったのです。 そして、うす紫色の石炭の煙の中に沈んでいるような、夕暮れの町は、まるで大夕張でした。 そして、去年の夏、『20世紀最後の皆… 続きを読む
思い出ばなし 『松・竹・梅』&『ゆり』|ziny お正月に「松竹梅」という言葉を耳にすると、小学校時代を思い出します。 鹿島小学校の『組』の名前です。 ・・昭和30年代は、 「松・竹・梅・櫻・菊・桃・藤」 という名前だったと記憶しています。 「すみれ」もありました。 団塊世代では「桐」もあったと思います。 50~55人前後の生徒数。6学年… 続きを読む
続・大夕張つれづれ 松本あきら(零士)の『電光オズマ』|高橋正朝 #20 松本あきら が若いころ描いたマンガの主人公の少年少女は、眼に特徴があった。 少女マンガの主人公は可愛く描かれ、眼が大きく描かれて、内容もポエムっぽかった。 少年マンガは、SF ものや、戦争ものがわりと多かった。 鹿島中学校2年生のときに、明石町に住んでいた誰かから、少年マンガ雑誌『 … 続きを読む
思い出ばなし この日を迎えると・・ | jun 思い出されるのは大夕張に生きていた当時の頃。 しばれたね~ 大晦日は家族団欒。 ミカン箱、裸まいり、除夜の鐘。 厳かな雰囲気とウキウキした気分が融け合っていました・・ 年が変って元旦の朝。 湯たんぽから洗面器に水を移して顔を洗い、最初は両親に挨拶。 みんなで神棚にご挨拶。 お年玉を… 続きを読む
随想 アオタン |内川准一 「千葉県君津市は自分の同期生がいまして、高校卒業以来、約30年同じ職場で勤務しているんですが、この街はカナリ大夕張出身者が多いんじゃないかな?」 ヒロさんの、この文章を読んで、あることを思い出した。 千葉県君津市と東京都の一部では、以前から北海道方言「アオタン」が通用する。と言うこと。 … 続きを読む
思い出の記 鹿島中学校科学クラブ ゴーカートづくり| Kawauchi Masami 鹿島中学3年生の時、科学クラブに入りました。 クラブは、2つに分かれていて、化学と物理学で、私は物理学部でした。 3年生の時、文化祭で、2サイクルエンジン ・4サイクルエンジン・ロータリーエンジン、の仕組みを紙に書いて貼り出した事が有りました。 覚えていないかなあ・・・当時、化学部は水素に誤… 続きを読む
随想 河村先生 |千古のみどり 学校でお世話になった先生は、沢山いらっしゃいます。 覚えていますか… 鹿島小学校の上の、小高い丘の上にあった『大夕張カトリック教会』を? 『人は何のために生まれ…そして死ぬのだろう…』 あそこへ行ったら、教えてくれるかも知れない… そんな思いで教会の門を叩いたのは、私が小学生の頃でした。… 続きを読む
思い出ばなし 「琴姫七変化」のチャンバラごっこ|小野美音子 テレビの無かった我が家に、御近所の、木下さん、古山さん、星山さんなど、色々な方が、おもしろそうな番組があると、よく、誘って下さいました。 木下さんの家では、よく「琴姫七変化」を、見に行かせてもらいました。 それはきれいな琴姫さまが、主役で、悪者がでると、七変化してやっつけ、最後には、何事もなか… 続きを読む
続・大夕張つれづれ 「ヒマラヤ天兵」と「めくらのお市物語」 |高橋正朝 #19 鹿島東小学校5年生のとき、「 おもしろブック 」に「 ヒマラヤ天兵 」というマンガが連載されていた。 作者は「 棚下照生 」。 タナカ•テルオ と読ませる漢字の名前としては大変珍しい。 テレビドラマにもなったらしいが、大夕張で視聴できた番組だったかどうかは知らない。 このマンガが連載中… 続きを読む
随想 鹿島の太陽|ziny 「黒部の太陽」を観てきました。 「裕次郎の夢」全国縦断チャリティ上映会、に当選して、さいたま文化センターまで出かけてきました。 会場はびっしり満員で、ざっと数えて千五~六百人もいたでしょうか。 私より先輩が多数と、感じましたが。・・・ 44年振りの完全公開だそうです。スクリーンの中の、今は亡き… 続きを読む
随想 クリスマスの記憶 |野口美代子 小学生か中学生か定かではない記憶の一葉に、クリスマスイブに、河村先生(聖心幼稚園)に連れられて、大夕張炭砿病院の廊下で、クリスマスソングを何曲か歌いました。 静かな入院病棟に美しい(?)歌声を響かせたことがありましたっけ。 聞いた人達の感想は聞けませんでしたが。 その炭鉱病院に作家の渡辺淳一… 続きを読む
随想 新型車 |内川准一 スバルから新型の軽自動車が出た。 興味があったので、カタログをもらってきた。 長さ3.2m、幅1.5弱、車輪の間は2.2mの小さな車だ。 小さな車が好きなので、すっかり気に入ってしまった。 夫婦2人になったらこんなのでもいいかな?(買わないけど・・) 昔、スバル360という車があった。 … 続きを読む
随想 1970年のころ | 宇良田 彰 1970年(昭和45年)は、世田谷の下北沢にいました。 札幌から東京に移り、一種のカルチャーショックを受けていた時代でした。 目的が定まらず、単位を取るために学校に通う毎日でした。 目的が定まっていないということは、色々なことに手を出しては火傷をし、熱いと感じて手を元に戻すことに似ています。… 続きを読む
続・大夕張つれづれ サイレン |高橋正朝 #18 私が物心ついた時分から、明石町では、定刻を知らせるサイレンが鳴っていた。もしかすると、戦前からそうだったかもしれない。 かなり大きな音だった。明石町の全域に知らせるためだったから、それなりの音量が必要なのは、子ども心にも理解できた。 鹿島東小学校に通うようになって、幼児のときより活動範囲が少し… 続きを読む
思い出ばなし 青春 アルバイトの思い出|ziny 夕張東高校・・・・雪の降った日の登校風景は、砂糖の丘を一列になって登る蟻の行列の様。 一列で前の足跡を踏みながら、雪の坂道を上る様子は、まさに、蟻ですねー・・・、鹿島の勤勉な蟻の姿そのものです。 しかし、暖かい部屋でギターを弾いていたキリギリスもいたかもしれませんが・・。 東高5期、昭和44… 続きを読む
随想 ポリオ(小児マヒ)の流行 |准 1959年に指定伝染病に指定されたポリオ(小児マヒ)は、翌1960年からは、さらに勢いを増し、全国で猛威を振るった。 北海道では5月に、夕張地区(大夕張)で大流行し、全道に広がって106名の死者を出した。 自衛隊によるDDTや石灰の散布は行なわれたが、道内45万人の幼児に対しワクチンは3万人分し… 続きを読む
思い出ばなし 子どもたちの冬|ziny 冬、八百五十へ行く道や、神社の上の方には兎の足跡がよくありました。 鹿島小学校の石炭庫、物置?にも、兎とりのハリガネの罠があったような記憶があります。 当時の鹿島の冬の子供たちの仕事は、ジャンプ台作りでした。春日町の坂道・・私はりき(じき)しんの坂でした。道を90度に横切りジャンプ台を作りまし… 続きを読む
思い出の記 初めてのアルバイト|Kawauchi Masami 昭和43年、中学2年生の冬、2月ごろでした。 アルバイトはその日、20~30人ほどいたでしょうか? アルバイトに行く人は、スコップ持参との事でした。親父は、前の日にスコップの柄の所に、手に雪が付かない様に縄でドゥナツの様なワッパを付けてくれました。 そのスコップを持って、朝7時ごろ迄に、大夕… 続きを読む