随想 YS11の町にて思う|柳川 傑 昭和37年(当時小5年)に、春日町から現在の愛知県三好町に家族そろって転居して来ました。 親父(故人)が、当時、大夕張炭鉱の労務の仕事をしていて、炭鉱離職者を引き連れ、農村地帯だった三好町が、工場誘致条例の第1号として誘致した、三菱の「YS11」プロペラ機の部品工場であった「三和金属」に転職して… 続きを読む
思い出の記 汽車と競走した話|Kawauchi Masami 昭和40年ごろ、東京に旅行に行って速い電車に慣れて、大夕張鉄道に乗ったとき、遅くて 遅くて、なんだこれっと思ったものでした。清水沢〜遠幌間が、特に、遅かったと記憶しています。 小学校5年生の時、清水沢〜大夕張まで、汽車と24インチの自転車で競走した事が有りました。 いい戦いでした。 … 続きを読む
思い出ばなし 語り継がれた話|佐々木広行 もう27年前の事ですが、通学で毎日大夕張、清水沢間を、今では名前も忘れましたが、SLで通っていた頃のことです。 当時、私は、夕張南高校へ行っておりまして、毎日SLを利用していた訳なのですが、有る日、登校の時だったか、下校の時だったかは忘れましたが、いつものように、SLに乗っていました。 座席が… 続きを読む
続・大夕張つれづれ 「痛快ブック」と岳富町商店街の火事|高橋正朝 #3 私が鹿島東小学校3年生の春、明石町番外地の自宅の外で、寺田ヒロオのマンガ、「 背番号ゼロ 」を手にとっていた。 表紙に 「 新漫画党 」 と書かれ、黒丸の上から下に稲妻形のマークが入っている。 稲妻形と思ったのは、アルファベットの S の図案化だったのを後に知る。 つまり、「 新漫画党&… 続きを読む
続・大夕張つれづれ 寺田ヒロオのマンガと読者~観客者の想像力~|高橋正朝 #2 私が鹿島東小学校2年生のとき、小学館の学習雑誌、「 小学2年生 」に掲載されていた、寺田ヒロオ のマンガの意味がわからず、悩んだ、と形容するほどでもなかったが、断続的に何十回も考え、ようやく東小学校4年生ぐらいのとき、理解できたものがあった。 このマンガ、小学2年生用だったのだが••••••。 … 続きを読む
随想 窓が埋まったときは!|内川准一 一昨日。我が家に1本の電話。電話の主は亡・父親宅の隣家。 「あの~○○ですけど~」、妻「何かありましたァ?」、隣人「屋根から雪が落ちて家の壁に当たったんですけど、みてもらいたいんですけど・・」、妻「分かりました、帰ってきたら夫に電話させますから。」、隣人「なるべく早くお願いします。」プツン。 … 続きを読む
続・大夕張つれづれ 鹿島東小学校1年生|高橋正朝 #1 私が鹿島東小学校1年生のときの担任は、長谷川ヒロコ先生でした。 飯田さんがスマホ用に編集転載した、「 大夕張つれづれ #18 」にその原文が載っています。 したがって、ここに書き込んだ内容は、一部その原文と重複します。それに、飯田さんとやり取りしたメールの一部を書き加えました。 最初の P… 続きを読む
随想 文集『ヤマの子』|高橋 歌子 昨日、実家の押入れを整理していましたら、東小学校時代の卒業文集と「ヤマの子」と題する文集が三冊出てきました。 これは小学5~6年に担任だった吉田要作先生がまとめたものです。 B4判の茶色の紙にガリ版で印刷され、まるで活字を使ったかのようにきれいで丁寧な字で埋められています。 「ヤマの子」は夏… 続きを読む
思い出ばなし 羆に脅かされ羆に助けられた話|ふぉんていん はじめまして、匿名にて失礼します。小生、緑町で生を受け(産婆さんは池田さんと仰る方です)、東高卒業まで大夕張に在住しておりました。 「大夕張掲示板」に邂逅し、望郷の念で筆を執らせてもらいました。 昭和四十年代前半だったと思いますが、シューパロ湖畔で飼われていた羆が脱走したことがありました。ハンタ… 続きを読む
思い出ばなし 幼稚園の思い出|工藤 央 色々思い出に関してかかれていますが、私もひとつ思い出したことを書きます。 昭和44年頃だったと思います。 当時風邪をひきやすい体質だった私は(今は頑丈すぎるくらいです)、数日間幼稚園を休んでいました。しかし熱も下がり体調も良くなったので、久しぶりに幼稚園に行くことになったのです。 しばらくぶ… 続きを読む
思い出ばなし 大夕張でのお盆 【回想】 最後のお盆を過ごしたのは・・・ 【三浦ユキヒロ】 大夕張で最後のお盆を 過ごしたのは、何時だったかなーー 関西で暮らしていた時の、束の間の帰郷かな~ それが大夕張のお盆時期だったのかも知れないと、朧気な記憶の彼方から、細い絹糸を手繰り寄せる様に、脳裏に浮かんで来ました。 あの、裸電球に赤〃と… 続きを読む
思い出ばなし お盆の花火|石原賢治 出張で実家(福岡)に寄り父親と話した際、お盆の花火のことで書いて欲しいといわれまして、ひと言。 お盆、8月15日(旧の盆)の夜、山神社脇から打ち上げ花火をあげていました。 専門の花火屋さんを雇うわけでなく、会社の社員の方で北沢さんという方が、あげていたそうです。 他にも何かの連絡ごとで、明… 続きを読む
思い出ばなし 思い出ばなし ソリと竹スケート|成田利夫 竹スケートは、良く滑っていましたよ。 値段は忘れましたが、とても安く売っていたと思います。かばんに入れて学校帰りに滑って帰ったものです。 ある日、馬ソリほど大きくはなかったですが、大きなソリで、3人で坂道を滑って、そのまま、すごいスピードがついて、カーブでひっくり返りました。 その時、私がソ… 続きを読む
流れのように 流れのように■学校の戦後■|長谷川安造 #12 戦後、殊更自由主義、民主主義の徹底等が叫ばれて、教育界の様相も日とともに、移り変わって行った。 私ども学校職員では、いち早く仲間同志で職員組合を早々に結成し、不安がちの各教職員の生活を自主的に、相互に守り合うこととした。 その後、三、四ヶ月くらい経過した頃、組合組織が各地域で唱えられ、夕張市教職… 続きを読む
流れのように 流れのように■終 戦■長谷川安造 #11 終戦直前の頃、内山清治校長の温情により、職員各家庭にて空襲に備え、防空壕を作るものにはその材料を提供するとの話があった。 長さ、幅、厚さと大物であったが、家庭のことが頭に浮かび、防空壕づくりを決心した。 7月末日、お隣の外山正平先生共々、家の前の土手地に壕づくりが始まる。 その最中の… 続きを読む
流れのように 流れのように■銃後の私(4)■|長谷川安造 #10 そんな或る年の春、教室で朝の学習が始まって間もない時、教室入口の開き戸を静々とあけ、のぞき込むように「先生,ちょっとお願い」山羊綿羊組合の一会員小林さんだった。 私は学習を中断し、何事かと廊下に出た。 「家の山羊がいま難産で苦しんでいる最中、何とかお願いできませんか」 私は困った。しかしこれ… 続きを読む
流れのように 流れのように■銃後の私(3)■長谷川安造 #9 動物愛護とか、農林省滝川畜産種羊場と言う言葉を耳にすると、私の戦時中の大夕張での生活が思い出される。 自給自足や増産教育が、全国どこの学校でも盛んで、前回にも一寸述べたところだが、児童と共に『打うちてして止まん』『勝つ迄』の精神で、成し遂げれるものには何でもぶつかっていったものだ。 高学年担任… 続きを読む
流れのように 流れのように■銃後の私(2)■|長谷川安造 #8 年がかわり、私は夕張市三菱大夕張礦業所のある大夕張尋常高等小学校に転勤した。 昭和13年の春の頃で、国内情勢、何処も同様な雰囲気で、この地は前任地に比べて、人口も多いだけに、応召兵士の数も多く、殆んど毎日の様に、大夕張駅ホームまで、高学年児童と共に見送ることとなった。 「勝ってくるぞと勇ましく… 続きを読む
流れのように 流れのように■銃後の私(1)■|長谷川安造 #7 昭和20年前までの戦争に参加し、大変な苦労や、戦果を挙げたたこと、又は戦友との悲しい別れ、戦慄厳しい中の色々、家庭的悲喜交々、何れも第一線に臨み、生死の線上に立っての有り難くも尊い体験談をよく聞いたり、読んだりする。 そうした度毎、私はほんとうに長い月日ご苦労様でした、お陰様でありがとうと感謝の… 続きを読む
流れのように 流れのように■思い出の記 -大夕張のくらし③-■|長谷川 安造 #6 今次大戦では、兄の長男(甥)が角田から出征後、満州で訓練を受け、終戦の春、沖縄に移動、6月の那覇市南方の真栄平で激戦の末、戦死した。兄の家は、二男が鉄道に就職し、当時、空知農学校付属寮母職の母を呼び、のちに嫁を取り結婚。岩見沢市内で家を継ぐ形となる。 私の弟は、終戦と同時に、色丹島で捕虜となり、… 続きを読む