流れのように 流れのように■学校の戦後■|長谷川安造 #12 戦後、殊更自由主義、民主主義の徹底等が叫ばれて、教育界の様相も日とともに、移り変わって行った。 私ども学校職員では、いち早く仲間同志で職員組合を早々に結成し、不安がちの各教職員の生活を自主的に、相互に守り合うこととした。 その後、三、四ヶ月くらい経過した頃、組合組織が各地域で唱えられ、夕張市教職… 続きを読む
流れのように 流れのように■終 戦■長谷川安造 #11 終戦直前の頃、内山清治校長の温情により、職員各家庭にて空襲に備え、防空壕を作るものにはその材料を提供するとの話があった。 長さ、幅、厚さと大物であったが、家庭のことが頭に浮かび、防空壕づくりを決心した。 7月末日、お隣の外山正平先生共々、家の前の土手地に壕づくりが始まる。 その最中の… 続きを読む
流れのように 流れのように■銃後の私(4)■|長谷川安造 #10 そんな或る年の春、教室で朝の学習が始まって間もない時、教室入口の開き戸を静々とあけ、のぞき込むように「先生,ちょっとお願い」山羊綿羊組合の一会員小林さんだった。 私は学習を中断し、何事かと廊下に出た。 「家の山羊がいま難産で苦しんでいる最中、何とかお願いできませんか」 私は困った。しかしこれ… 続きを読む
流れのように 流れのように■銃後の私(3)■長谷川安造 #9 動物愛護とか、農林省滝川畜産種羊場と言う言葉を耳にすると、私の戦時中の大夕張での生活が思い出される。 自給自足や増産教育が、全国どこの学校でも盛んで、前回にも一寸述べたところだが、児童と共に『打うちてして止まん』『勝つ迄』の精神で、成し遂げれるものには何でもぶつかっていったものだ。 高学年担任… 続きを読む
流れのように 流れのように■銃後の私(2)■|長谷川安造 #8 年がかわり、私は夕張市三菱大夕張礦業所のある大夕張尋常高等小学校に転勤した。 昭和13年の春の頃で、国内情勢、何処も同様な雰囲気で、この地は前任地に比べて、人口も多いだけに、応召兵士の数も多く、殆んど毎日の様に、大夕張駅ホームまで、高学年児童と共に見送ることとなった。 「勝ってくるぞと勇ましく… 続きを読む
流れのように 流れのように■銃後の私(1)■|長谷川安造 #7 昭和20年前までの戦争に参加し、大変な苦労や、戦果を挙げたたこと、又は戦友との悲しい別れ、戦慄厳しい中の色々、家庭的悲喜交々、何れも第一線に臨み、生死の線上に立っての有り難くも尊い体験談をよく聞いたり、読んだりする。 そうした度毎、私はほんとうに長い月日ご苦労様でした、お陰様でありがとうと感謝の… 続きを読む
流れのように 流れのように■思い出の記 -大夕張のくらし③-■|長谷川 安造 #6 今次大戦では、兄の長男(甥)が角田から出征後、満州で訓練を受け、終戦の春、沖縄に移動、6月の那覇市南方の真栄平で激戦の末、戦死した。兄の家は、二男が鉄道に就職し、当時、空知農学校付属寮母職の母を呼び、のちに嫁を取り結婚。岩見沢市内で家を継ぐ形となる。 私の弟は、終戦と同時に、色丹島で捕虜となり、… 続きを読む
流れのように 流れのように■思い出の記 -大夕張のくらし②-■|長谷川安造 #5 沼ノ沢から大夕張に引っ越して間もない頃、忘れられない思いがある。 二女は幼少時、ジフテリアにかかった。 小学1年入学前のこと、病院で、再びジフテリアと診断され、血清注射を受けることになった。 草野院長が、「念のためきくが、この子、これまでに血清注射をしたことはないだろうな」ときいた。 私は… 続きを読む
流れのように 流れのように■思い出の記 -大夕張のくらし①-■|長谷川安造 #4 私は14年間の思い出多い、沼ノ沢を後に、昭和13年春、大夕張尋常高等小学校に転勤した。母、私たち夫婦と娘三人の六人で、青年団員や父兄、教え子に見送られ、大夕張の地に移住した。 沼ノ沢の教え子たちと、青年団員は、新築炭住の私の引越し先まで来てくれ、手伝ってくれたものだ。嬉しい志に感謝。 昭和13… 続きを読む
流れのように 流れのように■青年の夜学 ~山奥の出張教育所~■|長谷川安造 #3 今から50余年前のこと(昭和19年頃)大夕張尋常高等小学校から更に15km位、(シューパロ)川の上流地点に、冬山造材所があり、そこで数十人の青年たちが働いていて、山奥の青年夜学出張教育所が開かれていた。 私は或る土曜日の夕刻、スキーで林鉄(※)沿いに、細い雪道を,造材事務所を目指し急いだ。 歩… 続きを読む
流れのように 流れのように■昭和16年 夕張岳登山■|長谷川安造 #2 昭和13年春から夕張岳に一番近い麓の、大夕張尋常高等小学校に勤めることになった。 この学校では早くから、児童の健康体力増進を重視し、その一つとして、毎年夏休みに入るとすぐ夕張岳(1668m)への登山を計画し、年中行事としていた。 高等科1、2年生の内、病弱な者をのぞき、全員が参加することになっ… 続きを読む
流れのように 流れのように■鹿島小学校のむかし■|長谷川安造 #1 40年の昔、自然林に包まれ、朝夕、夕張岳に美しく映える麓の地に新しく、木のかおりの高い『主夕張尋常小学校』が誕生。児童の大部分が,南大夕張から転入した。 当時の校庭には、大木の切り株がいくつかあり校舎裏は、深い笹やぶに囲まれていたという。 開校10年後の昭和13年3月、私が赴任したころは教師の… 続きを読む
思い出の記 思い出ばなし 私のそばにあったモノたち・・・|Kawauchi Masami 私66歳。 今までの流れを思い出して、10年毎だと、世の中変わりすぎですので、5年毎に思い出してみました。 1954年(昭和29年) 私の生まれた年。私が物心ついた頃、町中 馬車と馬そり でした。 1959年(昭和34年) 5年後、テレビ や 洗濯機が普及します。 1964年(昭和39… 続きを読む
大夕張つれづれ 大夕張つれづれ■カミナリ■|高橋正朝 #81 2017年8月19日に、東京都世田谷区の「玉川二子橋公園」の鉄柱に落雷があり、花火大会を見物していた20~50歳代男女7人が体のしびれを訴え、他に女性2人が過呼吸になって、計9人が病院に搬送された記事が新聞に載っていた。命には別条ないそうで不幸中の幸いだった。 私が鹿島中学校3年生のときだから昭… 続きを読む
大夕張つれづれ 大夕張つれづれ■発火■|高橋正朝 #80 2017年8月3日に、東京の築地場外市場のラーメン店から火事が発生し、店舗7棟計935㎡を焼いた記事が出ていた。 コンロの前の壁にステンレス板を張り付けていたようで、そのステンレス板に覆われていた壁が炭化し、それが燃えたのが原因のようである。 もう、50年ぐらい前であるが、 仕事で築地市場の場… 続きを読む
大夕張つれづれ 大夕張つれづれ■マエダケ■|高橋正朝 #79 私が4歳か5歳ぐらいの初夏のころ、名前は全く覚えていないが、明石町に住んでいる細身の人で、父親ぐらいの歳の人が、夕張山地に入ってキノコの塊を持ち帰ってきたことがある。 そのキノコを、「マエダケ」といった。夕張山地にある山の名称として、前岳というのがあるが、同じ発音だったので記憶がはっきりしている… 続きを読む
大夕張つれづれ 大夕張つれづれ■旧友再会■|高橋正朝 #78 昨夜は、珍しい人物と電話で話しました。 鹿島中学校3年I組(担任は、理科担当の藤野真一先生)で同級生だった平野精一さんです。54年ぶりぐらいになるのかな~、彼と話したのは。 キートンこと、増田粛さんが平野さんの連絡先を教えてくれました。彼自身も、平野さんと連絡がとれたのは、つい1週間ぐらい… 続きを読む
大夕張つれづれ 大夕張つれづれ■お盆と出店■|高橋正朝 #77 私の大夕張の子ども時代は、祭りは5月だったか6月だったか、今となってはハッキリと覚えていない。 北海道の七夕は、内地(今でも北海道で使っているかどうか・・・、沖縄の人も本州を内地というらしいが・・・)、と違い、8月7日だ。 東京の浅草から上野にかけては7月7日だが、意外なことに、東京でも中野区… 続きを読む
大夕張つれづれ 大夕張つれづれ■鹿島東小の運動会■|高橋正朝 #76 前回、書き間違えたことがありました。「ねむの木」を「オジギ草」と書いてしまいました。 東南アジアでは、山間地に行くと「オジギ草」を、よく見ます。バンコク市内では、偶にしか見ない。耐寒性が低いため、大夕張では育成しない。 ウィキペディアでチェックしてみると、沖縄では自生しているようだ。それに、「… 続きを読む
大夕張つれづれ 大夕張つれづれ■下校途中の出来事■|高橋正朝 #75 私が鹿島東小学校3年生か、4年生の天気のいい春のころ、もしかすると初夏のころだったかもしれない。学校の帰りに、クラスは違うが同学年の男児と一緒になった。 彼の当時の顔はハッキリと覚えている。アンパンマンそっくりである。もちろん、アンパンマンなんてマンガは、当時はなかったが・・・・・・。名前はもう… 続きを読む