1909年(明治42年) 明治

1909年(明治42年)

8月 28日,「大夕張炭坑株式会社」と社名を変える。 この頃,賃金支払いの手段として山札(金券)が発行され(一銭・五銭・五十銭・壱円の4種),坑夫は指定商から買い物をした。 当時の指定商「永原商店(魚介)」「 坂本呉服店」「中田呉服店」「沢本呉服店(酒,肉類も扱う)」「中村豆腐店」「高田甘泉堂(菓子…
1907年(明治40年) 明治

1907年(明治40年)

1月 請願巡査1名設置。3月 行政補助機関として、登川村村内23部のうち、第22部「大夕張」が加わる。6月 1日,大夕張炭礦事務所の建築工事を請け負っている土建業兼物品販売業川畠義雄、作業中の問題で会社より叱責され、請負停止。紛争を醸したが、巡査部長村瀬某、巡査多村謙次郎の仲裁で一応解決。 2日,飯…
1906年(明治39年) 明治

1906年(明治39年)

1月  18日,川崎繁美,通信省鉄道局に対し,清水沢~二股間専用鉄道敷設免許申請提出。 6月 坂本則美を社長とする京都合資会社が,炭礦を買収。炭砿事業を開始する。同時に専用鉄道敷設のための、馬鉄工事に着手。 8月 2日,清水沢-二股(現南部)間約8.9kmの専用鉄道敷設認可。 10月 1日,北海道炭…
1898年(明治31年) 明治

1898年(明治31年)

福山某(福山米吉説有り)が二股岸露頭の試掘権を得て開礦する。福山礦という。 (函渕、大夕張ダムができる前の二股(南部)のあたり)…
「大夕張色の情景」「こちら三菱バス営業所」 1丁目1番地

「大夕張色の情景」「こちら三菱バス営業所」

「大夕張色の情景」と、「こちら三菱バス営業所」、リンクや動画の更新を行いました。 映像館の方もそうなのですが、2000年当時作った動画が、軒並み再生できないようになっています。他の動画投稿サイトに上げようとしても、「サイズがあいませせん・・・」みたいなエラーメッセージが出て結局、コンバーターなどで再…
「ふるさと大夕張」の更新について その4 1丁目1番地

「ふるさと大夕張」の更新について その4

 「ふるさと大夕張」から新「ふるさと大夕張」への引っ越しにともなって、名前をどうしたらよいだろうかと考ええました。引っ越しですから、内容が「ふるさと大夕張」と変わるわけではありません。ただ2020年という時代に合わせて、その姿、形が変わります。    以前、「大夕張掲示板」でどなたかが、「ふるさと大…
昭和48年鹿島東小学校校内放送(閉山特集) 映像

昭和48年鹿島東小学校校内放送(閉山特集)

昭和48年7月、閉山が決まった大夕張で、当時鹿島東小学校で視聴覚を担当していた山中先生が、石野先生、吉田先生、用務員の中谷さんの協力を得て、放送委員の子ども達とともに作った校内放送作品です。大夕張の歴史をふり返り、閉山と向き合っていこうとする放送です。 石野先生  【福山 美佐子】 東小を卒業し、鹿…
ダムに沈む街 「ふるさと大夕張」の更新について その3 1丁目1番地

ダムに沈む街 「ふるさと大夕張」の更新について その3

 最初に、先日の投稿でパスワードの話、鹿島東小のそばにかかる橋の名前、間違えて設定していました。ごめんなさい。正しいのを打ち込んでいたのに、出なかった方、ご迷惑をおかけしました。訂正しておきました。    「ダムに沈む街」(はじめに)は内容的にも心情的にも?1997年当時のもので、手直しをしようとず…
1888年(明治21年) 明治

1888年(明治21年)

夕張川川岸15尺の大露頭が発見される。(南大夕張 旧錦坑)しかし、地形峻険のため開発は進まず。 (函渕、大夕張ダムができる前の二股(南部)のあたり)  …
黄色い旗と思い出ノート 1丁目1番地

黄色い旗と思い出ノート

「黄色い旗と思い出ノート」泊川さんが鹿島小学校に設置したノートの一部、平成10年4月から、平成12年10月まで書かれた内容です。現地の大地に立ち、その場所で、消えゆくふるさとを見て感じて、書くからこその、心の悲痛な声が静かに、重くきこえて来ます。 当時、私が鹿島小のグラウンドで5歳の娘とキャッチボー…