思い出の街角 大夕張駅構内 続き 長谷川さんの『じゃじゃぽっぽ』の17ページの写真に着色。 栄町ー富士見町の踏切に自動車が止まっている。 右手には石炭置き場への側線。 白黒写真に着色した画像 大夕張駅構内から健保会館・幼稚園方面を見る … 続きを読む
2丁目3番地 昭和50年代 学生ボランティア 『NHK日本縦断こころの旅のブログ』で火野正平さんが、鹿島小学校跡地を訪ねた放送回のブログに、昭和53年年から昭和54年頃、当時学生ボランティアとして活動に参加した方からの投稿があります。ここに、転記して紹介すると、 大夕張には今から40年前の夏、訪れたことがあります。 大学の募集したワー… 続きを読む
広告 サトミ会館・広告 昭和45年 昭和45年 住宅地図掲載広告 千年町にあったサトミ会館。 サトミ会館 (電話番号) ・味の店 歌麿 (T.106) ・鉄板焼 より路 (T.106) ・スナックと喫茶 夕渚 (T.106) ・寿し かど蛯 (T.6167)… 続きを読む
随想 名古屋から愛をこめて |二木 晃 昭和十三年生まれ、鹿島中学校卒七期生です。 パソコンをいじっていて、傲然、大夕張のホームページを見つけました。本当に懐かしく、ドキドキしながら、すべてのコーナーを拝見しましたが、皆さん、若い方ばかりの投稿で、ちょっと寂しい気がしないでもありません。 六十歳を過ぎたものには、パソコンはむりなので… 続きを読む
昭和 1979年(昭和54年) 1月 旧,大夕張駅舎に大夕張診療所(平池正医師※元炭砿病院々院長)開設。 2月 夕張信用金庫大夕張支店が大夕張出張所に変更。 4月 1日,鹿島小児童数160人。7学級。 奥鹿島分校児童数2人1学級。鹿島中112人。4学級。第11代斉藤與四政校長。 5月 三菱南大夕張第2斜坑ガス突出事故,死者17… 続きを読む
随想 坂本弁護士の奥様について|乗田功一 オウム事件で坂本弁護士一家が犠牲となるという忌まわしい事件からちょうど9年ということですが、弁護士の瀧澤秀俊さんが、この事件をテーマにしたHPを立ちあげています。 坂本弁護士一家殺害事件 5年10ヶ月の軌跡 (dti.ne.jp) その中で「都子さんへの追悼文集」というページに、18年前… 続きを読む
思い出の街角 大夕張駅構内 昭和48年の大夕張駅構内。 左に駅舎、続いて鹿島通運。 右に倉庫・精米所が見える。 向かって左の側線が、フレンド裏の石炭置き場に伸びていた。 踏切のそばにあった富士見町詰所のあたりから、作業の様子をよく眺めていたなあ・・・。 白黒写真に着色した画像 ブログ『煙の記憶』より 下は、大夕張鉄道の… 続きを読む
2丁目3番地 夢 珍しくふるさとの夢を見た。 炭砿病院を過ぎたあたりからその夢は始まった。 栄町の通りを駅に向かってひとり、車で走っていた。 「あれ、ダムに沈んだはずだが・・・」 そう思いながら、雑草が生い茂り、人のいなくなった無人の商店街を走り抜けた。 右手の錦町の山の方に一台の車が止まっていた。 古い… 続きを読む
楽しかった日々 職場対抗ボート大会2 昭和40年、『シューパロ湖畔・職場対抗ボート大会』の写真をボート乗り場のところから撮影した写真のようだ。写っている人たちには、先の写真と同じ人物がいる。 ボートに乗っている子、ボートに乗ろうとしている子?カメラで撮影しようとしている子?高校生のグループらしき人たち物もいる。 後ろの道路を歩い… 続きを読む
地図 沢の名称 (パンケモユーパロ川) 三弦橋の下を流れたパンケモユーパロ川の沢。 パンケ(下手の)、モ・ユーパロは、「子の、小さい、支流の・夕張川」の意。 「茂夕張(もゆうばり)」「下夕(しもゆう)」と呼ばれた。 夕張市史(S56)所載の図 本流であるシューパロ川の沢については、こちら↓ https://ooyubari.com/202… 続きを読む
楽しかった日々 シューパロ湖畔・職場対抗ボート大会 昭和40年にシューパロ湖で開かれた礦業所の職場対抗ボート大会だという。 職場の福利厚生の一つとしてのレクリエーションだったのだろうとは思うが、『対抗』というからには、何らかの形式で、得点、あるいは順位をつけたのだろうか。 職場対抗ということもあってか、湖畔亭の周辺には、若い男女や、学生、家族連れ… 続きを読む
続・大夕張つれづれ 苛性ソーダと石けん その1|高橋正朝 #56 私が鹿島東小学校の高学年だったあるとき、授業で、先生が、石けんを作ろうと言った。 理科の教科書に、石けんのことが出ていたからだ。 石けんの具体的な作り方が、教科書に載っていたわけではない。 油と苛性ソーダで作ると書かれていただけだったように思う。 油は皮膚につくとべとつくから、それ… 続きを読む
思い出の街角 礦業所に向かう道 この通りは、手前が礦業所で、そこに向かう道。通勤途中の人たちもみえる。 右手に2階建のアパートが見える。このブロックの前で撮ったのが、『炭砿病院前』の写真。『ふるさと大夕張2丁目3番地』での、自分がはっきり場所を覚えている数少ない場所だ。 右手前に見える木立は病院前の公園があったと… 続きを読む
思い出ばなし 濃いめの味 |斎藤敏幸 長谷川さんの『食憶』にもありましたが、我家の味付けも塩分の多いものでした。 父は、採炭夫で先山をしていましたので、食卓は一家の大黒柱である父を中心に組立てられていました。 何を食べるにも、たっぷりめの醤油と、極めつきは、『味の素』の山です。 特にサケは「塩引き」といって、焼き上げても表… 続きを読む
タイムスリップ 昭和49年 コークス場・発電所あと 炭山駅横から北側と,官行と呼ばれた地域。過去の世界を行きつ戻りつ。 『ふるさと大夕張』(1丁目1番地)では、「閉山のあとに」と題して掲載した写真。 昭和48年閉山の後,昭和49年各関連施設の取り壊しがおこなわれた。 「平成10年 発電所からポンプ場へ」の昭和40年発電所と同じ場… 続きを読む
思い出ばなし 父がつとめていたコークス場 |山本栄子 発電所の隣にあったコークス場。 私が高校生位の頃迄、父が勤めていました。 二交代の勤務制だったと思います。ある日、雨が降りだし、傘を持って線路沿いに歩いて行った記憶があります。 石油等が輸入されるようになり、コークスの需要が少なくなったせいで、井出組?さんに、渡すという件で、当… 続きを読む
訪問記 平成10年 発電所からポンプ場へ|飯田雅人 突然よみがえる記憶 官行の道 平成10年夏の大夕張 下の写真は、昭和40年頃の発電所の写真をカラー化したもの。 色はあまり綺麗に出せなかったけれど、それでも初冬の風景なのか、枯れた下草が寝ているような様子に見える。 白黒写真に着色した画像 大夕張を出てからも,私自身の記憶に残る風景や建物は多く… 続きを読む
思い出ばなし 緑の中の大夕張駅 | 野口美代子 懐かしの写真の中に、大夕張駅を見て本当に帰って来たと思いました。 停車場(昔私が子供の頃、年寄達は駅のことをこうとも呼んでいた気がします)は人を見送って、見送られ、又会っての繰り返しの場でした。 大夕張駅は、ただただ別れの駅になってしまいました。 札幌へのバスが通るようになって、バス停が… 続きを読む
楽しかった日々 乳母車でお散歩 昭和32年頃。富士見町5丁目。線路そば、炭砿病院の近く。 昭和31年3月に、ここで生れた。 年上のお兄ちゃん、お姉ちゃんにかわいがってもらった。 岡田先生の息子さん、伊藤さんの娘さん・・・・。若林さんの娘さん・・・。 父の職場の炭砿病院の薬局にもよく『遊びに』いった。 接してくれた大人達… 続きを読む
随想 北海道言葉と食べ方の話題|佐々木洋子 私の住んでいる君津には、たくさんの大夕張出身者がいると思います。 引っ越しした当時は、同じ団地に住んでいました。 皆 家を建ててバラバラですけど・・・ さて、北海道方言と言えばたくさんありますが『うるかす』(つける・ひたす)は、標準語だと思っていました。 10数年前に、千葉県人に指… 続きを読む