惜別の町 | 小倉芳子

1602

 「大夕張にお別れをしに行って来たの」と突然友人からの電話。

 夜になっても変わらない暑さに、だらりとしていた全身の神経が一瞬引きしまり、私も行きたい!と思 わず心の中で叫んだ。

 九ヶ月の長男を抱いて私たちが彼の地へ足を踏み入れたのは昭和29年8月だっ た。

 東北本線、青函連絡船、函館本線、室蘭線と乗り継ぎ、最後の炭山線では、身ぶる いするような深い谷の上を5輌連結で、黒煙を吐き出し、汽笛をならしつつあえぐよ うに山の奥へと分け入り、夜8時、一昼夜の長旅の果てにやっと目的地に辿りついた。

 駅からの道すがら、話には聞いていたが、片側に延々と続くハーモニカ長屋には思わず目を見はった。

 職員社宅は小高いところにあり、正面遥 かに夕張岳 (1668米) をのぞみ、シ ュ―パロ川やハーモニカ長屋などの全景を一望できた。

 夕張市は北海道のほぼ中央部に位置し、北炭夕張と合わせて当時の人口は約10万、中でも私達の三菱大夕張は約二万人が住んで いた。昭和3年に炭坑の町として産ぶ声を あげたのだそうだ。

 ひと頃の黒ダイヤ景気 は下火になっていたが、依然として町は活気にあふれていた。

 ここでの生活が始まった。炊事は電熱器と石炭ストーブだが、はじめのうちはくす ぶってばかりで煙突はつまる、まわりは灰だらけになるで往生した。

 長い冬に備えて 買い込んだ玉葱やりんごを、箱ぐるみ凍らせてしまったり数々の失敗もなつかしい思 い出である。 やがて次男も生まれ、子育てを通して友達も増えた。

 先の電話の主は、少しあとに 一才、零才の坊やを連れて東京から来られ、現地でのおつき合いは2年と短いものだ ったが、今も親しくしている中の一人である。 友人や多くの方のおかげで厳しいこの土地でたいした苦労もせずに七年間過ごせ たのだが、中でも忘れられないのは七人の子持ちながら隔てなく子供たちを可愛がっ てくださったり不馴れな私を扶けて下さった鉱員社宅の一人のおばちゃん、私にとっ ては母以上の存在だった。

 豪雪の季節も真っ赤に燃えるストーブを囲んでの人々との交わり、雪が溶けはじめると小さな子供たちが待ち切 れずに、煤と馬糞と溶けた雪の泥沼にとび出して遊び,転 んで泥んこになって帰って来 る。

 草木が萌え始めると、同世代仲間でおぶったり手を引いた りして、ハイキングやコーラス、山菜取りなど、ほんの断片に すぎないが、今思うと、こんな生活がほんとにあったのか しらと夢のようだ。お世話になった方一人一人を思い出すとなつかしさと感謝に胸が 熱くなる。しかし一方で町を歩くと、手足を失した身障者の多いのに驚かされた。

 地上からは想 像も及ばない地底での落盤や坑内爆発で命を落としたり、けがをする人がどれ程あっ たのか、このような犠牲を踏台にしての大企業の繁栄だったのだと思う。若い私達た ちはそんな矛盾に気づきもせず生活を楽しんでいたのだった。

 炭坑は四十七年に閉山した。私たちも五年前にやっと訪ねる機会が出来た。ほんの何棟か残った社宅は手入れされていて住人はいるようだが、人かげはなかった。私たちの家は既になく、一面にルビナスが咲きみだれていた。小学校からはわずかに残る学童の元気な声が聞こえたが、ついに今年三月に七十年 の幕を下したとのことである。そして町全体が間もなくダムの底に沈む。

 程なく二十一世紀へと移行していく中で、当時を語れる人は次第に少なくなり、満々と水を湛えるシュ―パロ湖の水面から、元気だった炭坑(やま)の姿を偲ぶ術もなくなるのだと思うとたまらなく淋しい思いである。

(1997年秋 記)


zuisou

2件のコメント

  • 先日、押し入れをごそごそやっていると、小倉さんから1998年に、いただいた原稿のコピーと丁寧なお手紙が出てきました。この文章は、1997年秋に書かれたそうです。
    「惜別の町」は、好きな文章でこれまで何度も読み返しています。
    『大夕張にお別れをしに行ってきたの』友人からの電話で始まるインパクトのある素敵な文章と、客観的な内容は、深く印象に残りました。
    お手紙には、「昭和29年から7年に亘る大夕張での体験の数々は、宝物のように大切にしたいもの」「何とか少しずつ書き留めておきたい」と書かれてありました。
    あれから22年ですが、その思いは同じくするところです。
    私の親世代の方です。元気にお過ごしになっていることをお祈りします。

  • 心にしみるステキな文章ですね。読み終えると、心がほっこりと温かくなりました。

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