学び舎の思い出 昭和42年 鹿島中学校文化祭 1年B組 「天国と地獄」 昭和42年 秋。 1年B組。『天国と地獄』をテーマに行われた仮装行列。学級毎にテーマを決め、各自が家で持ち寄った素材で、仮装し、思い思いの服装と変装で大夕張の街をにぎやかにパレードした。担任は、山崎克秀先生。 鹿島中学校グラウンドで 学級毎の集合写真 鹿島中学校1年B組 【Kawauchi Masa… 続きを読む
思い出ばなし 子どもたちの冬|ziny 冬、八百五十へ行く道や、神社の上の方には兎の足跡がよくありました。 鹿島小学校の石炭庫、物置?にも、兎とりのハリガネの罠があったような記憶があります。 当時の鹿島の冬の子供たちの仕事は、ジャンプ台作りでした。春日町の坂道・・私はりき(じき)しんの坂でした。道を90度に横切りジャンプ台を作りまし… 続きを読む
思い出の街角 栄町商店街(川西商店・森永薬局・矢口時計店・福川メガネ・伊藤金物店) 昭和39年頃の商店街。 雪解け時期でしょうか、水を含んだ雪を除雪している様子の人の姿や店先に立てかけたスコップが見えています。 店舗はけっこう入れ替わりが多く、年代によってその名を変えているようです。 写真では、おそらく手前から「かわにし」「森永薬局」「矢口時計店」「福川眼鏡店」「伊藤金物店… 続きを読む
思い出の記 初めてのアルバイト|Kawauchi Masami 昭和43年、中学2年生の冬、2月ごろでした。 アルバイトはその日、20~30人ほどいたでしょうか? アルバイトに行く人は、スコップ持参との事でした。親父は、前の日にスコップの柄の所に、手に雪が付かない様に縄でドゥナツの様なワッパを付けてくれました。 そのスコップを持って、朝7時ごろ迄に、大夕… 続きを読む
楽しかった日々 昭和32年 緑町3丁目15番8舎 緑町3丁目15番8舎 【Kawauchi Masami】(2020年12月6日) 緑町3丁目15番8舎から、弥生町にカメラを向けて撮影しています。 見える屋根は緑町4丁目です。 3丁目と4丁目の間が坂になっていて少し離れていました。 タイヤのホイル、スポークだったの覚えています。この後のモデ… 続きを読む
2丁目3番地 『写真掲示板』の消えたデータ 自分のための備忘録です。 『写真掲示板』は、『ふるさと大夕張』(1丁目1番地)で運用していた(いる)旧来の掲示板のことです。 大雑把にいって、今から20年前、『ふるさと大夕張』の掲示板で、写真を添付することもできる『写真掲示板』を立ち上げました。 今となっては別にどうということもない機能でし… 続きを読む
思い出ばなし 明石町の思い出 |邦雄 明石町で、昭和27年に生まれて、小学4年迄住んでいました。 幼稚園には、汽車で通い、車中でチリ紙を長く切って、窓から手を伸ばして遊びました。 鹿島東小学校へは徒歩で通いましたが、今思うと自宅からは、2~3㎞くらいはあったのではないでしょうか? 学校帰りは、友達とぶらぶら遊びながら帰宅した事が楽… 続きを読む
続・大夕張つれづれ CMソング 楠トシエ | 高橋正朝 #17 続•大夕張つれづれ#14で、『 三つの歌 』の述懐から、天地総子の『 パンシロン 』の CM ソングに言及しましたが、じつは、この『 パンシロン 』の CM ソングを初めて聴いたとき、てっきり、楠トシエ が歌っているものと思っていました。 当時、CM ソングの歌手と言えば、楠トシエ が圧倒的に有… 続きを読む
楽しかった日々 冬の春日町 昭和40年頃。春日町6丁目16番。 一日中、雪が激しく降り続いたある日、突然雪が止み、太陽が光を注ぎ、空いっぱいに青空が広がる時がある。そんな時は、待ってましたとばかりに、外に飛び出し雪の中を転げ回って遊んだものだ。 そんな厳しい冬も、春が近づくと少しずつ外の気温も上がり、寒さも緩んでくる。そん… 続きを読む
訪問記 八年ぶりの大夕張 | 結城雅司 8月31日。大夕張に行ってきました。 正確に言うと「通り過ぎて」しまいました。 な~んにも残ってませんでした。 遅い夏休みをとり、予てからリクエストされておりました「北の国から」三昧旅行を、やっと決行したのであります。道東に入り、オホーツクを見、国後に思いを馳せ雲丹・イクラなど賞味しつつ富良… 続きを読む
楽しかった日々 昭和38年頃 白銀橋 明石町から、当時『開拓』と呼んでいた鹿島白金地区へ向かう橋。『開拓へいく』といったらこの橋を渡っていくというのが、自分のイメージ。 大夕張ダムの建設に伴い、大夕張中の多くの橋が架けかえられましたが、この白銀橋も昭和34年に、奥鹿島開拓地に通じる木製のつり橋が水没することになったため、その補償とし… 続きを読む
思い出ばなし 佐藤キンセイ堂時計店の思い出|小野美音子 懐かしいスピッツのことを思い出しました。 栄町の佐藤時計店の御主人は、髪がオールバックで、片方の眼に黒い筒状のレンズをはめて、いつも修理にいそしんでおられました。 (そのレンズが瞼からどうして落っこちないのか不思議でした^^) 同級生のテッちゃんと、姉のユミちゃんには、幼稚園の頃ずいぶん仲良く… 続きを読む
街の行事 昭和38年 岳富町の山神祭 昭和38年、岳富町。 山神祭の女の子の手踊り。懸命に踊りを披露する子どもたち。 それを見守る、老若男女多くの人たち。店の中から見ている人、子どもを抱くお母さんや肩車をしているお父さん、おじいさん、おばあさん。とその時、大夕張駅を出発した列車が汽笛を鳴らして通りかかったのだろうか。宝沢の築堤の方を見上… 続きを読む
思い出ばなし 大夕張線路沿いの出店|海好(うみこ) 出店で父に買ってもらった指輪とブローチは、今でも宝石箱に入れて大切にしまってあります。 お面や、カラーひよこも買ってもらいました。 家族みんな浴衣を着て撮った写真があります。(わたしたちこどもは、ひよこを抱いて・・・) 浴衣にひよこ・・・って、8月のお祭りのようです。 そうそう、6… 続きを読む
学び舎の思い出 昭和18年10月鹿島国民学校 高等科2年女子 もう色あせて一部が消えかけてきている写真ですが。 昭和18年(1943年)10月、鹿島国民学校 高等科2年女子。13、4歳の子どもたち、今から77年前。 当時の児童数、33学級1805人。 場所は、校舎中庭。後ろに渡り廊下と、東側の校舎が見えている。 当時、鹿島国民学校の訓導だった祖父は、戦時下にお… 続きを読む
思い出の街角 昭和50年代 千年町 双葉食堂 昭和57、8年頃(1982、3年頃)千年町 双葉食堂の暖簾の前で 千年町 双葉食堂 坂本行雄さんとの写真です。37〜8年くらい前だと思いますが、家族で大夕張を訪れた時の写真で父が撮ってくれたものです。今となっては母とそっくりになっている私ですが💦 (2020年8月10日) 昭和43年の住宅地図 … 続きを読む
2丁目3番地 『ふるさと大夕張』を再開した日 12月8日は、何の日。 昭和16年太平洋戦争の開始された日として有名ですが、個人的には『ふるさと大夕張』を10数年ぶりに更新を再開した日です。今日で、一年になりました。 『ふるさと大夕張』は、『1丁目1番地』として今も存在していますし、更新の再開にあたっては、この『2丁目3番地』の『備忘録 1丁… 続きを読む
思い出の記 磯次郎の沢のビーバーダム | Kawauchi Masami 昭和35年頃の磯次郎の沢【白黒写真に着色した画像) この写真は、磯次郎の入り口です。 行っても、行っても同じ様なカーブが続き、終いに何処まで来たか、わからなくなる様な光景でした。 その中でも、一つ一つのカーブの特徴を覚えていて、場所によっては切り立った崖があり、そう言う所に山苺がへばり… 続きを読む
学び舎の思い出 昭和36年 大夕張礦業所幼稚園遠足 昭和36年(1961年5月26日) 春日町 シューパロ川河畔 写真の裏面の『大夕張礦業所幼稚園の印』 飯田さんと同じ河原での記念撮影です。この写真の裏に判が押してありましたので一緒に投稿します。同級生の幼い顔が確認できます。これは幼稚園の遠足なんですがあまり記憶に残っていません。 当時の制服がわか… 続きを読む
続・大夕張つれづれ 大連でのテレビで見た白金の 森本 さん|高橋正朝 #16 私が、中国の大連にいた当時、3年間はホテルに住んでいた。 外交官や特例を除き、当時の中国では、たとえ、『 労働許可証 』を所持していたとしても、国籍を問わず、外国人の宿泊は、当局が認めたホテルでなければいけない時代だった。 我々が宿泊していたそのホテルは大型で、NHK 衛星放送を時々見ることが… 続きを読む