2丁目3番地 滝ノ沢岳/前岳/夕張岳 子どもの頃から見慣れた夕張岳の姿。 子どもの頃、あの尖った一番高く見えるのが夕張岳だと思っていたのに、平らでテーブルのような奥に見えるのが夕張岳だったという、かわいい誤解。 夕張岳を後ろに従え前に立つ前岳。 その凜として威厳ある立姿は好ましかった。 「覚えている夕張岳の絵を描きなさい」 … 続きを読む
あらかると 明石町の歴史 明石町の辺りは以前は、戦前は農場と呼ばれ、その後、第一農場とよばれていた(第二農場は、桜ヶ丘対岸→大夕張ダムで水没)と呼ばれていた。 このあたりには、戦争前後の話として、畑地として土地をかり、笹刈りから、大根の種まき、収穫まで家族総出で荒地開墾をしながら、食料を得ていたという祖父の話… 続きを読む
2丁目3番地 鹿島小学校記念写真帖(記念アルバム) 昭和28年(1953年)に配付された鹿島小学校の25周年記念アムバム。 鹿島小学校、開校25周年を記念して作成された『昭和28年学校概要』には、行事予算として記念写真帖(記念アルバム)の項目が、とられている。 当時、5000円というとけっこう大きな金額である。 どれくらいの数が配… 続きを読む
あらかると 大夕張 歴史・文化遺産物位置図 平成9年(1997年)における大夕張にあった碑などの他橋梁など産業遺産を含めて位置を示した図。 鹿島眺望公園に今は10の碑が残る。 もともとの場所に一番近い場所にあるものは、「夕張東高等学校記念塔」ということになる。東高跡地なのだから当たり前だが・・・。 鹿島この位置図に載ったもののうち… 続きを読む
あらかると 白銀橋落橋事故 昭和43年11月 最初にこのページをどこのカテゴリーに入れたらよいのか、迷った。 当時、運転手だった方がお一人亡くなられているから、「思い出の街角」にというのもちょっとどうかなと・・・・。 そこで、『備忘録-あらかると』というエピソード的なところへ収めることにします。 下の資料は、「白銀橋が永久橋に」とい… 続きを読む
2丁目3番地 猫と犬のなまえ 以前、『猫とブルドック』で林さんが、「岳富町の時計屋さんのショーウィンド」にいた真っ白い猫のことを書いた。 この真っ白い猫は、左右の目の色が違う猫だった。時計店の名前は書かれていなかった。 この時計屋さんは、「散歩道」の岳富町の住宅地図を見ると、昭和43年当時、安田靴店と木村呉服店の間… 続きを読む
あらかると 電気が通った日~奥鹿島の電化~ 昭和25年に鹿島開拓団12戸が入植し,開拓の第一歩が記された奥鹿島。 その後,鹿島開拓団は昭和30年に開墾の70パーセントを終了し,農地が国から売却された。 一方,大夕張ダム建設により水没する桜ヶ丘開拓団も、昭和30年に3戸、昭和31年に5戸、奥鹿島に入植した。 そして,昭和33年に、大… 続きを読む
2丁目3番地 フランスギクと花占い(大夕張の花) 道端のフランスギク 草丈20cmから1mくらいで、道端でよく見る可憐な白い花。 寒い冬の北海道でも越冬し、野生化し繁殖力のある外来種。 いまでは、他地域から導入された種が在来種に大きな脅威を及ぼしている植物として、北海道ブルーリストにものってしまった。 子どもの頃は、たしかマーガレットと… 続きを読む
2丁目3番地 アメダス(AMeDAS)鹿島観測所 気象庁が日本全国津々浦々に設置している地域気象観測システム「Automated Meteorological Data Acquisition System」の略。 簡単に記しておくと、 ・降水量、風向・気温、日照時間の観測を自動で行なっている。 ・1974年… 続きを読む
2丁目3番地 すずらん灯 昭和30年代の千年町商店街の写真を見ていると、目につくのはすずらん型の街路灯である。 球形のライトが鈴蘭の花のように連なっている洒落たデザインである。 同じく昭和31年のメーデーの大夕張駅前の写真にもすずらん型の街路灯が写っている。 対して昭和40年代、大夕張駅前周辺の写真をみると円盤状… 続きを読む
あらかると 各町で人口が多かったのは? 大夕張の人口が南部地区と合わせて23751人という記録が残っているのが、昭和35年のこと。 その時が大夕張の人口のピーク。 南部地区をのぞいても、18659人だった。 もっとも鹿島地区だけでみると、昭和30年の18778人という数字もある。 国勢調査のデータやら、住民基本台帳の数字やらで、… 続きを読む
あらかると 大夕張炭礦停車場付近(其の一) 当時の夕張を紹介した、大正7年(1918年)発行の『夕張』(小林近江堂発行)という書籍から。 場所は、現在の『三菱大夕張鉄道保存車両』付近。 大夕張炭礦は、三菱礦山合資会社の経営に係り、現在700の鉱夫を使用して年10余万トンの石炭を出す。 炭質すこぶる良好にして瓦斯、骸炭(コークス)等… 続きを読む
あらかると 大夕張の商店街 その1 【南部の商業地】 南部が『大夕張』で、大夕張が『北部大夕張』とよばれた明治から大正にかけての時代。 南部の大夕張炭炭坑に労働者が集まると同時に商売をする人たちも集まってきた。 その頃の話から始まる。 明治39年(1906年)、大夕張炭坑が開坑すると同時に、多数の労働者が入り込んだ。 … 続きを読む
あらかると 鹿島東小の誕生 1951年 終戦直後の国策である石炭増産により、鹿島の人口は急増し、鹿島小学校の児童数は増加の一途をたどった。 大夕張の町も、昭和14年以降、錦・宝・春日の各町が新設され、更に第一農場(明石町駅付近)、第二農場(桜ヶ丘付近)を含めた明石町、常盤町が昭和23年~25年にかけて開町するに及んで、学級数は40をこ… 続きを読む
2丁目3番地 春は線路からやってくる 私の住む札幌もようやく雪がとけ、春の訪れを感じさせます。 そんな時期になると、いつも思い出す、忘れることのできない詩があります。 大夕張を出てから出会った、言葉に初めて故郷を感じた、詩でもありました。 小学校の国語の教科書にのっていた詩です。 「春」 杉みきこ (加代の四季より) 春は、… 続きを読む
あらかると 三菱大夕張礦業所 歴代所長 昭和2年から昭和44年三菱大夕張炭礦株式会社分離独立まで 勝俣 英(昭和2年6月10日~昭和7年6月15日) 西原民平(昭和7年6月16日~昭和10年5月9日) 蒔田三雄(昭和10年5月10日~昭和12年2月28日) 後藤太郎(昭和12年3月1日~昭和15年2月11日) 立花範治(昭和15年2月12… 続きを読む
2丁目3番地 別世界 昨年、父の50回忌と母の3回忌の法要をすませた。そして今年、自分が大夕張を出て50年。 「区切りの年として、大夕張に行こう」と思ったものの生来の不精者故、のびのびになっていた。 今年になって3月9日10日、天気予報は、気温が上がり好天が続くと聞き、「父と母を連れて大夕張に行ってこよう… 続きを読む
2丁目3番地 三菱・夕鉄 バス停留所 昭和の大夕張、バス停留所を作って(描いて)みた・・・。 地図のネタになるか、空想の街のジオラマを彩る一素材になるのか。 用途は定かではない笑。 それはともかく実際の写真やビデオに写りこんでいるものを参考にした。 昭和30年代から昭和40年頃の自分がいた街がベースになる。 当時の三菱バス停の標識は… 続きを読む
あらかると 戦後の大夕張炭鉱鉱員住宅 戦後、石炭産業で働く人が増えることに応じて、春日町(昭和23年)、常盤町(昭和25年)に、新しい街ができた。春日町の住宅は、一棟2戸の内水道内便所で、部屋も六畳間が三つと妻帯者を中心に入居したという。 町外れの荒れ地に新しく炭鉱住宅が建設された。 その建設を担った大林組の社史に、記述がある… 続きを読む
2丁目3番地 シューパロ湖畔の若者たち カラー版 「ふるさと大夕張2丁目3番地」で、初めて写真のカラー化に取り組んだ。 初めは、2020年2月、ここ「2丁目3番地」を開設した時に「カラーにするとなんだか雰囲気がちょっと違う」みたいなノリで、AIで写真を自動着色してくれるサイトを見つけ、そこでどんどん変換していった。違いがおもしろくて元の白黒写真と着… 続きを読む