随想 東日本大震災体験記|ziny ※注 本稿は大夕張における『1968年十勝沖地震』の投稿中に『附録』として記載されていたものです。 平成23年(2011年)の3月11日は都心のエレベーターの中での地震を経験しました。 いやぁー、本当にすさまじかった。無事の今思うと貴重な体験でした。 15:00の約束で先方に向かいエレ… 続きを読む
思い出の街角 夕張岳山頂神社 昭和40年ころ撮影された夕張岳山頂手前の神社。 下の写真は、同じ場所の現在の神社。 いつかまた登ってみたいとは思うが、山頂の神社を思いながら遥か下界から夕張岳の山頂を仰ぎつつ祈りを捧げることにしよう・・・。 昭和40年ころの神社 現在の夕張岳山頂神社… 続きを読む
随想 1998年 大夕張 閉鎖の頃|飯田雅人 昨日の北海道新聞夕刊に『鹿島の施設 水没で閉鎖』という見出しで、小さな記事が出ていました。 内容は、住民の移転がほぼ終了し、鹿島連絡所が9月29日で閉鎖され、10月末には、夕張署の鹿島駐在所も閉鎖されるというものでした。 6月に私が大夕張に行った際には、鹿島連絡所は、4月から火曜日のみ… 続きを読む
学び舎の思い出 夕張東高等学校校舎平面図 『鹿島のあゆみ』に掲載の平面図に、題字等若干修正を追加して作成した図。 昭和53年頃、生徒数339名、9学級、職員30名の頃の配置図と思われる。 こうして見ると、昭和45年頃、あの時中学生だった自分が、学校祭でみたバンド演奏と、窓の外に見た金色に輝くシューパロ湖の光景は、3年B組の教室だったか…それ… 続きを読む
思い出ばなし 雪中ジャンプと凍ったタオルのチャンバラ |内川准一 雪中ジャンプよくやりました。 私らはもっぱら4軒便所の屋根からでした。 姿が完全に雪に埋没するのが最高でした。 長靴から足が抜けなくなるのもお構いなしで、かかとの上にしもやけを作って血を滲ましていた。 最近見かけないタイプの子供だったんだね。栄養状態も悪かったのかしらん。 あと、タオルでチャンバラ… 続きを読む
運んだ、石炭を人を 大夕張炭山駅付近 大夕張炭山駅は大夕張鉄道の始発駅。 炭山駅の表札のかかる出入り口のところに、昭和30年代三菱バスの『砿業所前』、始発、終着の場所として記憶を留めていた。 その頃、シューパロ川上流の清流で川遊びをした。 「官行に遊びに」行く際、炭山駅の前の踏切を渡った記憶を呼び起こす写真でもあった。 勇壮に黒煙… 続きを読む
思い出の記 空の音|Kawauchi Masami 戦闘機の動画を見ていて思い出したことがあります。 今は聞いた事が有りませんが、 昭和40年〜42年頃、自衛隊のジェット機の音が聞こえて来た時、 『ドンッ』と、音がして、学校中のガラスが震えていたの覚えていませんか? 先生に聞いたらジェット機が、音速を超えた時に出る音だと教えてくれました。 … 続きを読む
閉山を迎える街 昭和48年の街 その4 昭和48年(1973年)の街なみ。 手前、スキー場と周辺の富士見町2丁目の住宅。 健保会館プールの向こうに栄町1丁目から炭砿病院。 そして向こうには、官行が工場群が見えているという大夕張神社からの見慣れた光景だが、この後、ほんのわずかな期間でこの光景は一変したことだろう。 小学校の頃、左下の青い屋根… 続きを読む
訪問記 『さよなら美鉄バス』ツアー 昭和31年(1956年)9月大夕張炭山内を走り出した美鉄バス(三菱バス)が、平成14年(2002年)3月31日で廃業となりました。 惜しみつつ最後のツアーが計画されました。 当日は、かつての路線だった夕張・美唄を中心にまわり、たいへんかかわりの深い大夕張にも当然立ち寄りました。 写真は、かつての… 続きを読む
訪問記 宝沢 冬 2002 宝町の広場、集会所のあったあたりから、岳富町(宝沢)を間に緑町。 町はもうない。 標語塔に「人の子もわが子もみんな社会の子」という標語が読める。 それぞれの時代に掲げられたいくつもの言葉が、赤茶色に錆びた標語塔に重なり合って浮かび上がっていた。 唯一読み取ることのできたこの言葉が、地域に向けて発… 続きを読む
続・大夕張つれづれ 北海道弁••••••手袋をはく|高橋正朝 #81 先週、飯田さんの写真付きの投稿で、〘 そり遊びとボッコ手袋 〙というのがありました。 今から40年ぐらい前になるが、東京のデパートで、〘 ぼっこ手袋 〙と書かれた陳列品を見たことがあった。 ガラスケースの中に入っていたものは、価格は覚えていないが、結構高かった。 〘 ボッコ 〙… 続きを読む
思い出の記 緑町3丁目15番から|Kawauchi Masami 昭和34年頃 家の物干しにつかまって 東京の兄が、カラー化してくれた写真です。 緑町3丁目15番から、緑町4丁目方面の撮影です。 3丁目と4丁目の間には、少し坂が有りました。 なので4丁目の屋根が写っています。 写真で緑町を見ると 3丁目は19番で終わっています。 3丁目と4丁目の間の坂は16番… 続きを読む
思い出ばなし 炭山駅から大夕張駅まで | 石原賢治 大夕張炭山駅は始発駅でしたが、何度かそこから乗車することがありました。 改札口のすぐそばには、今まさに出発を待つ蒸気機関車が湯気といいますか、蒸気をちらつかせ出発の時間を待ちわびているようでした。 あの、汽笛も子供にとっては大変大きな音で、いつボウ ボウといいますか、ポーポーという音を発するの… 続きを読む
学び舎の思い出 鹿島東小校舎全景 鹿島東小学校閉校記念誌より、校舎全景写真。 グラウンドの北側の土手の方から校舎を撮影した全景写真。 写真のキャプションには、 「この校舎で、3000余の子どもたちが学び、遊び、そして育った」 とある。 昭和26年(1951年)開校、そして閉山を経て昭和53年(1978年)に閉校するまで、27… 続きを読む
思い出ばなし 童心にかえって |飯田雅人 雪での遊び 凍るような寒さの、真冬には何をしたかというと、他愛もないことですが・・・ --真っ白に積もった雪の中へのジャンプ-- これは楽しかったですね。 新雪の積もった朝には、雪かきは大変でしたが、熱くなった身体を冷やすにはもってこいでした。 石炭小屋の屋根の上から、高く積った雪山の上から両手… 続きを読む
学び舎の思い出 鹿島東小学校登校風景 昭和53年(1978年)に閉校した鹿島東小学校の閉校記念誌に掲載された写真から。 正面玄関と登校する子どもの達の姿。 白黒写真に着色した画像 登校風景… 続きを読む
思い出の記 雪から抜け出す方法|Kawauchi Masami 札幌の今年の大雪で、あっちこっちでスタックしている車を見てて大夕張の冬を思い出しました。 昭和50年頃、まだ乗用車に4WDが無く、私達も冬はよく埋まりました。 その時、私の抜け出す方法は、当時の車はみんなチョークが付いていました。 そこでスタックした車をわざと、タイヤをカラ回転させます。 そこでチョ… 続きを読む
思い出ばなし 東小の思い出マップ|高橋歌子 これは、昭和48年の鹿島東小学校の卒業アルバムからです。 夏休みに閉山で転校してしまった私は、卒業していないのですが、送ってもらいました。 閉山の時点で昔より学級数が少なくなっていたので、空き教室が卓球室になり、行く人も少なかったので皆気持ち悪がっていました。 トイレも大きくてシーンと… 続きを読む
雪催いの町 雪催いの町(Snowfall Version) 詩・曲 山吹とおるさんの「雪催いの町」のイメージを想起する素材に巡り会いました。 闇夜に、青白い月光に照らしただされた雪ばかりが真白に光り輝き、雪が深々と降りつのる世界。 そんな動画にコトバをのせてみました。 町の思い出が言葉になり、浮かんでは消え、また浮かんで消えていく。 追いかけても、追いか… 続きを読む
楽しかった日々 そり遊びとボッコ手袋 昭和35年頃 富士見町5丁目、炭鉱住宅は、ほぼ規格が決まっていた。 このあたりは病院の関係者などが多かった。一軒2戸、横には畑というか雪のない時期には、家庭菜園になるような空き地のスペースがあった。 窓も埋まるような雪が降った後は、その空き地の方に向かって坂を滑る絶好のスペースが出来て、冬の遊びに興… 続きを読む