鹿島国民学校の職員写真だろう、「だろう」というのは、昭和19年の記載しかなくメモ的なものがないからだ。 それでも当時、鹿島国民学校の訓導であった祖父の姿が後列左端に、昭和19年時の学校長であった丸刈りの内山清治校長の姿が最前列向かって右から4人目に見える。 また、『昭和14年 大夕張尋常高等小学校 …
今日、小学生がリックサック姿で登校してたので、2年生位の子に「今おやつ代 いくら」と聞いたら、200円と言ってました。 私の時で100円だったので、あまり上がってないんだ〜と思いました。 何故か、購買会の前の松本商店で買った記憶があります。 生協も購買会も、おやつを買いに行った記憶…
3月 新大夕張ダム鹿島農地対策委員会会長交代(吉田仁→山田優) 4月 12日、鹿島地区離農補償交渉に伴う同意書提出 5月 5日,鹿島栄町元鹿島旅館で三菱南大夕張炭砿下請日高組宿舎が火災。保険金目当ての放火による出火。消防職員1名殉職。 …
街を買い物していたら かなり懐かしいオヤツに再会しましたよ。 自分が中学時代 鹿島 宝町に住んでいた頃 確か昭和53年位〜千年町町にあった、所商店でしたか、よく駄菓子やアイスキャンディーを買いに行きました。 少しお小遣いに余裕があれば、同級生の清水君の実家、志村菓子舗?でしたか、和菓…
前回、続・大夕張つれづれ # 109 「 けれっぱ 」の投稿にコメントした、飯田雅人さん、Masami Kawauchi さん、成田利夫さん、佐野義明さんの文章を読むと、いずれも、〘 け 〙は濁音ではなく、清音の〘 け 〙のようである。 飯田さん、成田さん、Masami&…
昭和15年〈1940年)頃発行の、三菱大夕張礦業所発行の絵葉書の8枚を紹介するシリーズの最終回。 三菱大夕張礦業所、従業員寄宿舎本立寮とその宿舎の部屋の室内を撮影したもの。 従業員寄宿舎本立寮 全国各地から集めた鉱員で、主に若い独身者を収容した寮は、大夕張の各所につくられていた。 事務室があり、…
昭和35年(1960年)頃、実施された泉町の町内運動会。 当時、大夕張で盛んに行なわれていた各町内会での恒例行事。 泉町では、毎年趣向をこらした運動会が行なわれていた。 その第1回大会。 この時町内会長を務めていた南太吉さんの自宅前の広場で実施され、その記念撮影。 他にこの頃、町内会の世話役を務めて…
木柱に板張りで白く塗られた時代の記憶の方が色濃く残る駅名標。 街から旅立つ人を見送り、迎えた「大夕張」の文字。 この駅名標が金属板になった頃は、おそらく昭和40年代になってからだろうけれど、すでに大夕張から出るにも帰るにも、バス利用が主となっていた。 手書による力強い文字が当時への思いをつなぐ。 …
子どもの頃から見慣れた夕張岳の姿。 子どもの頃、あの尖った一番高く見えるのが夕張岳だと思っていたのに、平らでテーブルのような奥に見えるのが夕張岳だったという、かわいい誤解。 夕張岳を後ろに従え前に立つ前岳。 その凜として威厳ある立姿は好ましかった。 「覚えている夕張岳の絵を描きなさい」 …
2022年8月の大夕張行 今年3月に、父母の五十回忌と母の三回忌の区切りに十数年ぶりに大夕張を訪れたことは以前にも書いた。 初めて見たり聞いたりしたことには、いつも新鮮な感動を伴う。 その時、心に湧いてきた率直な感覚がある。 故郷の変わらぬ山の姿と新しくできた湖、 懐かしいのに新しい 風景…
今となっては、もはや、この言葉は、死語になっているかもしれない ••••••。 運動会などで、特に徒競走のとき、ビリケツ、すなわち最下位になったときには、大夕張時代の我々は、〘 けれっぱ 〙と言っていた。 〘 けっぱ 〙という〘 れ 〙が抜けた言葉もあったか、私は、どちらかというと、〘 …
シューパロダム本体からみると、ダム管理事務所の対岸にセメントコンクリ-トで固められた岩盤とそばに大きな岩が湖面に屹立している場所がある。 かつて大夕張ダム堤体そばに巨大な岩の名残りがあり、そこはダムが建設される以前は、箱岩(函岩)とよばれその作り出す景観は函渕とよばれた。 大夕張開発の…
2022年8月22日の大夕張行の帰りに寄った。 「ダム管理事務所」と書いたが、正式には「北海道開発局札幌開発建設部夕張川ダム総合管理事務所」というようだ。 昭和37年(1962年)に大夕張ダムが完成、10月に南部-明石町間の道路が開通し、大夕張は陸路で他地域と結ばれるようになった。 大夕…
2022年8月下旬に訪れた際の「夕張シューパロダム」本体の上から。 今年の5月にダム完成後初めて訪れた。 それは、深川のキャンプ場に行く途中の「ついで」だったが、連れもいたので寄る気になった。 その時はあいにくの天気、雲に覆われたどんよりとした天気で、夕張岳は姿を見せていなかったが、今回は天気に恵ま…
自宅でパソコンを触ることにしました。 メールアドレスを会社から自宅へ 変更しましたので、これからもよろしくお願いします。 阿久津 誠 <makotoa23jp@yahoo.co.jp〉 千 葉, 南部 50歳~59歳 男性 - 2004/12/27 04:09:24 私は炭鉱が閉山した4…
東高校から2年の時に転校しましたが、25年会のメンバーに加えさせていただいております。 片岡 正記 埼 玉, 富士見町 50歳~59歳 男性 - 2003/12/26 _ 12:22:12 住民登録されている方の中に懐かしいお名前をみつけました。 早速、連絡を取りたいと思います。 S35年生ま…
昭和40年生まれ。 炭鉱閉山により小学2年夏、群馬県に引っ越しました。現在は栃木県に住んでいます。 記憶では山の上の長屋に住んでおり、直ぐ近くに天理教の建物がありました。 カトリック教で外人の神父さんがいた幼稚園、そして鹿島東小学校に通ってました。住所は錦町かどうか定かでありません。 冬はスキーを履…
私の子どものころ、特に、鹿島東小学校時代によく使っていた言葉である。 もちろん、周りの大人も使っていた言葉だ。 しかし、私が中学生ぐらいになった時分から、あまり使わなくなったような気がする。 東北弁がルーツだろうと思いつつ、ネットでチェックしてみたら、果して、そのとおりだった。 …
『大夕張炭山』の絵葉書(小紙商店発行) 明治大正期の大夕張炭山。 言い換えると、昔の南部の市街地風景といえるだろうか。 後ろの山が『南部貯木場』の写真にうつる山と同じ形に見える。 南部小学校側の裏手の山の方から撮影されているようだ。 明治40年に、南部小学校の前身である清水沢簡易教…
明石町の辺りは以前は、戦前は農場と呼ばれ、その後、第一農場とよばれていた(第二農場は、桜ヶ丘対岸→大夕張ダムで水没)と呼ばれていた。 このあたりには、戦争前後の話として、畑地として土地をかり、笹刈りから、大根の種まき、収穫まで家族総出で荒地開墾をしながら、食料を得ていたという祖父の話…