思い出ばなし

むかあ~し、むかあ~し、ちょっとむかし、こんなこともありましたとさ。
子どもの頃に返って、思い出してみました。

錦町界隈|久々湊真一 思い出ばなし

錦町界隈|久々湊真一

   「始めてのお買い物」というTV番組を見ていて、いつのまにか大夕張にタイムスリップしていた。    *** 自分の始めてのお買い物は、錦町入り口の購買会なのだろう(憶えていませんが)車も走っておらず家のすぐ前なので、スリルも何も無かったろうなぁー*** と。     錦町購買会は2階建ての大きな…
むかし話 スキー場 山小屋風食堂 | 泊川俊徳 思い出ばなし

むかし話 スキー場 山小屋風食堂 | 泊川俊徳

    昭和38年以前、大夕張のスキー場に、 リフトロープ上がり付近に、スキーの季節だけラーメンやうどんを食べられる山小屋風の食堂が有りました。    冬、これと言う娯楽のない大夕張。  冬はスキーくらいしかなく、朝から夕方まで滑り、昼はこの食堂で、あたたかいラーメン、うどんでした。  まだ、かけラ…
泉町仮装行列始末|久々湊真一 思い出ばなし

泉町仮装行列始末|久々湊真一

  「知られざる泉町」に一部書いた泉町の仮装行列につき記載します。 既に書いてあったのですが、品が無いので掲載を見合わせていたものです(一部表現に不適切な部分があることをお許し下さい)。   何の仮装を行うかは、町内会の三役が決めたようで、   「今年は××をやれ」   と有無を許さぬお達しがありま…
大夕張っ子の茶飲み話 思い出ばなし

大夕張っ子の茶飲み話

 ある日、あるとき昔の子どもたちが、チャットをしていた。  ピーヒャラ、ピーヒャラ笛の音と花火の音。    1950年代に生れた人たちのようだ。  話は、お盆の話から花火の話に・・・・。    みなさん、こんばんは。静かなお盆をお過ごしでしょうか。 炭鉱も石炭で湧いた景気いい時代でした。 暗くなりだ…
たなばたの思い出|小野美音子 思い出ばなし

たなばたの思い出|小野美音子

 緑ケ丘のブロック2棟8軒で、心に残る七夕があります。   当時小学校6年生の兄が企画し、音頭を取って、皆が楽しみました。  兄達が大きめの笹を用意し、皆に願い事の短冊を書くように言いました。  そして、それは2階の星山さんへの階段のところに、きれいに飾られました。    リンゴ箱のステージで、小さ…
偶然にも程がある|工藤 央 思い出ばなし

偶然にも程がある|工藤 央

  東京で仲良くなった友人の結婚式で、お父様と話をさせていただくとき、   「お父さん、工藤さんも夕張生まれなんだって」   と紹介され 私 「夕張でもさらに奥の大夕張なんです」  友人父 「僕も大夕張ですよ」  私 「でも大夕張でも端っこの明石町なんですよ」  友人父 「え?私も明石町ですよ!」 …
夏のメロン|工藤 央 思い出ばなし

夏のメロン|工藤 央

       夏休みには、父が女子バレー部の顧問をしていた関係上、家にバレー部の方が合宿に来ていたということも憶えています。     あんな狭い家に7~8人くらい来ていたんでしょうか?      夏の思い出としては、教え子の方から「夕張メロン」をいただいていたことでしょうか?     ほぼ毎日に近い…
取水堰の八つ目 | 泊川俊徳 思い出ばなし

取水堰の八つ目 | 泊川俊徳

メタノール工場横にあった 堰堤での話。   小学校の頃、父が雨で増水した堰堤附近の川で、八つ目を水汲みのバケツ、2つ・3つ採って来ていました。   父は八つ目採りが得意だったようです。   釣り竿は、使わないで採って来てました。   雨で増水した川岸に、八つ目が集まる場所があるようでした。   バケ…
取水堰 堰堤と八つ目|EZONORA 思い出ばなし

取水堰 堰堤と八つ目|EZONORA

堰堤の下には、なんのためか知りませんが穴倉があって、その穴倉に八つ目が集まっていました。 カーバイト灯火をつけて、その穴倉に潜り込んで、八つ目を獲っていました。    当時、カジカをガッペと称していたようですが、私はゴタッペと言っておりました。  箱メガネとヤスで、ゴタッペを、よく刺していました。 …
富士見町6丁目の坂|EZONORA 思い出ばなし

富士見町6丁目の坂|EZONORA

 鹿島小学校を背にして、ほぼまっすぐの道路を進んで、どんづまりから少し下ったところの富士見町6丁目に住んでいたことがあります。      思いつくことといえば、鉱業所に勤務していた方だと推測しますが、大変太った方が、退社の時間になると、自力では坂道を登ることが無理があったのか、いつも同僚らしき人のズ…
かしこいカラス | 成田利夫 思い出ばなし

かしこいカラス | 成田利夫

   カラスはたくさん飛んでましたねえ。    確か夕方になると空が半分くらい真っ黒になっていたのを覚えています。  小学校に通う道の真ん中でカラスが留まっていたので、いたずらに石を投げてみると見事にカラスの胸に当たりました。    カラスはびっくりして翔んでいきましてそのまま小学校に行き、学校帰り…
カラスの襲撃 |石原賢治 思い出ばなし

カラスの襲撃 |石原賢治

 小学5年の頃、ソロバンを習っていまして、ある日曜日に鹿島中学校で昇級試験がありました。  早めに富士見町の家を出て、歩いて中学校へ向かいました。   岳富町を通る時、何を血迷ったのか、歩道の上の擁壁伝いを歩いていました。   そう、鉄道のすぐ脇道を歩いたのです。  これは、正式な道ではありません。…
時計屋さんの白ネコ |  内川准一 思い出ばなし

時計屋さんの白ネコ |  内川准一

 林さんの『猫とブルドック』の話を読んで、    ずうっと考えていました。   岳富町の時計屋の窓にいたという、両眼の色が異なる猫のことです。   昭和37年まで、弥生町の我が家で飼っていた猫がそうでした。   白地に茶色の斑が混じる二毛ネコで、片眼が金色に近い黄色で、もう一方がブルーグレーのような…
『1968年十勝沖地震』の記憶  | ziny 思い出ばなし

『1968年十勝沖地震』の記憶 | ziny

 44年前・・・、もうー、そんなにも時はめぐったのかとしみじみと思うのですが・・  今日、5月16日は、昭和43年(1968)に十勝沖地震が発生した日です。  9時48分だったようです。   この地震は、過去にも、その後も数回発生しているため、発生年を付して区別されており、当時の私達が経験したのはM…
鉄橋の上で地震に遭遇 |お父ちゃん 思い出ばなし

鉄橋の上で地震に遭遇 |お父ちゃん

今日、5月16日。 昭和43年(1968年)5月16日、午前9時50分頃。 旭沢橋梁の上で、土砂投棄作業中でした。   遠くに見えていた明石町駅が、突然、左右に大きく揺れました。   一瞬後ろを振り返ると、モーターカーに連結していた台車上の女性の人夫さんたち4~5人が、すさまじい揺れにおののき、しゃ…
南部小学校の思い出 | 奥山道紀   思い出ばなし

南部小学校の思い出 | 奥山道紀  

 私は小学校三年生まで南部小学校に通いました。  青葉町の営林署の官舎から、森林鉄道の夕張川横断橋を渡り、貯木場、大夕張鉄道の営林署岐線を通り、矢板医院の前に出ました。  学校の下には南大夕張駅があり、機関車を見るのが楽しみでした。   今では学校も閉校になり、校舎の跡には、校歌の刻まれた記念碑があ…
オリンピックの記憶|ziny 思い出ばなし

オリンピックの記憶|ziny

  アテネオリンピックが始まりました。   準備の遅れが予想されてましたが、開会式はなかなか素敵でした。   芸術点は高かったですね。参加選手も感動・・といってましたが。    時は昭和39年(1964年)、東京オリンピックの開会式。   あの日10月10日は抜けるような青空でした。   聖火の最終…
映画館(協和会館)| 野崎昭雄   思い出ばなし

映画館(協和会館)| 野崎昭雄  

大夕張の映画館、1軒だけは、記憶しております。  駅前から春日町へ向かって行った左側にあったと思います。 鹿島小学校の学芸会で、この映画館の舞台を利用したはずです。 ここで見た最初の洋画は、ゲリー・クーパー主演の「遠い太鼓」でした。 たしか、炭坑に勤務している家族と、それ以外の者では入館料が違ってい…
仮装行列の思い出 |佐藤次男 思い出ばなし

仮装行列の思い出 |佐藤次男

 仮装行列というと鹿島中学校の仮装行列しか記憶になくて、東高のは知りませんでした。   私が、小学生のとき鹿島中学校の仮装行列を見て、早く中学校に入って仮装行列をやってみたいと思ったものです。   昭和45年、念願かなって中学1年生になり、仮装行列の準備を何日も前から行い、ようやく当日がきてみれば、…
昭和36年鹿島小の修学旅行 |内川准一 思い出ばなし

昭和36年鹿島小の修学旅行 |内川准一

 小学6年の修学旅行のことです。  昭和36年の修学旅行は、汽車で清水沢駅前に集合。  集まった生徒約400人は、ここでバスに乗り換えて支笏湖経由で苫小牧に向かったのです。  苫小牧では元町か糸井のあたりでバスを降りました。  山猿のわれわれは、ここで、生まれて初めて(?)海辺の砂遊びを楽しみました…