思い出ばなし 米沢先生訃報に接して|小林光志 昭和27年鹿島小学校入学で、小学校3年生頃、担任ではありませんでしたが、一緒に遊んでくれた思い出があります。 米沢先生のクラスに、友人がいましたので良く遊びました。 深夜、米沢先生が宿直の時、鹿島小学校でお化け遊びと称して、何人かの友人たちと学校内を探検しました。 ある日、先生が私たちを… 続きを読む
思い出ばなし 夕張北高との偶然の出合い|菅井宏史 高校3年の修学旅行時(何度か書きましたが、私は小学4年の時に大夕張を離れましたので、当然夕張の高校ではありませんが)、函館→青森の青函連絡船内で、同じく修学旅行中の夕張北高の一行と、偶然にも一緒になったのでした。 その時の状況を詳しくは思い出せませんが、「夕張」ということで、多分私がその中に知… 続きを読む
思い出ばなし ひたむきに・生きた・君 | 斎藤敏幸 私が、栄町アパート( 栄町2丁目14番地の8)に住んでいた頃、二つ向こうの棟のアパートに「佐藤ひでみ(秀美)」君という同級生が住んでいました。 彼は、何事にも真面目で、ひたむきさを持った少年でした。 家が近所のこともあり、互いの家に遊びに行ったこともありました。 彼との思い出で、いつ… 続きを読む
思い出ばなし 学のあるはなし(その2)|丸山直記 わたしが好きな音楽での思い出をひとつ。 前にも書きましたが、私は音楽が好きでしたが、生の交響楽団を聴くチャンスは、大夕張ではありませんでした。 しかし中学校の時に、札幌交響楽団が、鹿島中学校の体育館で演奏会を行いました。 音だけは知っていたが、見たことも無い楽器を大勢の音楽家が目の前で… 続きを読む
思い出ばなし 夕鉄バスの記憶|乗田功一 子供の頃、冒険心を起こし親に内緒で一人で、夕張へ行ったことがあります。 当然、お金もないので、清水沢までは汽車で(当時、回数券が会社より支給されていたのでタダで乗車できました)行き、そこからバスに乗り換え夕張へ。 適当に町をブラついたあと、帰りは逆のコースをとるべくバスへ乗車しま… 続きを読む
思い出ばなし 最後の記念写真 |斎藤敏幸 栄町アパートには、東高を卒業するまで住んでいました。 当時の住所は、栄町2丁目14番地の8です。 ここには、元木造の八軒長屋が建っていましたが、それらを取り壊して立てられたものでした。 私は、小学校に入る前年に、新築時に入居しました。 コンクリートブロックの住宅は、当時とし… 続きを読む
思い出ばなし サイレンの音を聞くと・・・・|野崎昭雄 「思い出貼」-「音の風景」の「サイレン」を聞くと、重苦しい雰囲気を思い出します。 鹿島小学校の授業中に、単発のサイレンを聞くと、定刻の知らせと安心しましたが、突如、連続して鳴りだすと、沈痛な雰囲気となりました。 定刻以外で連続して鳴りだすと、炭坑(ヤマ)が崩れたか、ガス爆発が発生したという合図だ… 続きを読む
思い出ばなし 里見公園|宇良田彰 「里見公園」というキーワードで検索すると大変な量のサイトがピックアップされてきました。 全国にはこれと同じ名称の公園が結構あるのだなと感心しました。 「里見公園(サトミ公園)」に関する想い出を一つ...。 高校時代に坂を下りた所に、確か「池田食堂」という屋号だったと思うのですが、そこで… 続きを読む
思い出ばなし 大夕張のこと| 内川准一 大夕張の最盛期は、たぶん、昭和35年頃だったように思います。 昭和37年、鹿島小学校卒業と同時に大夕張を離れた私にとって、昭和54年、17年ぶりの故郷との再会は衝撃的でした。 思えば、 町をあげての運動会。 メーデーの行進。 のど自慢大会。 ヘリコプターの校庭への飛来。 闘… 続きを読む
思い出ばなし コークス工場のにわかプール|小林光志 昭和30年前後、私が小学生の頃、栄町のプールは、自由に使用できませんでした。 開放日には、大夕張中の人が来るので、手足を伸ばして泳げませんでした。 なにより期間が短かったので、もっぱら洗炭場の上や、いそじろの沢などで泳ぎました。 しかし、秘密の場所がありました。 それは、コ… 続きを読む
思い出ばなし 同級生との不思議な縁|里見尚子 昭和35年2月生まれです。 父の転勤で、鹿島小には昭和43年から46年まで在籍していました。 最後の担任の先生は、木村国男先生でした。 本当にやさしい、一番好きな先生でした。 当時は、炭坑がまだ栄えている時期で、転入生も多かったのを記憶しています。 私は、富士見町1丁目、スキー場のす… 続きを読む
思い出ばなし 坑内での弁当|今井一郎 長谷川さんの『食憶(エピソード1)』を読んで思い出しました。 そうそう。みんな水筒には、お茶。特大のマヨネーズのチューブには、水を入れて凍らせていました。 入坑してすぐには凍っていて飲めないので、チビチビと休憩の度に解けた分を飲むと、節水(?)にも役立つとのこと。 私も真似をしようと思い… 続きを読む
思い出ばなし 清明寮のパン|野崎昭雄 春日町の川向こうにある沢を、「礒次郎の沢」ということを、『散歩道』の中の住宅地図を見て、初めて知りました。 ガラス箱メガネと、ヤスを持って、ゴタッペをよく刺しに行ったにもかかわらず、今日まで沢の名前を知りませんでした。 小学校2~3年生のときに清明寮の近くに住んでおりましたので、この沢には、よ… 続きを読む
思い出ばなし 濃いめの味 |斎藤敏幸 長谷川さんの『食憶』にもありましたが、我家の味付けも塩分の多いものでした。 父は、採炭夫で先山をしていましたので、食卓は一家の大黒柱である父を中心に組立てられていました。 何を食べるにも、たっぷりめの醤油と、極めつきは、『味の素』の山です。 特にサケは「塩引き」といって、焼き上げても表… 続きを読む