月: 2022年3月

2000年1月5日~2001年3月29日 住民登録

2000年1月5日~2001年3月29日

私は、S34年東小卒/S37年鹿島中卒/S40年東高卒(2期)です。 以降は本州で就学・就職 し、現在は茨城県日立市に住んでいます。 私の父は、大夕張に一軒しか無かった印刷業を 営んでいました(みなと印刷)。 大夕張には平成2年5月に行きましたが、湖に沈む前に再 訪したいものです。 私にとっての大夕…
1998年10月1日~1999年12月29日 住民登録

1998年10月1日~1999年12月29日

昭和45年、6歳になるときに江別に引っ越しております。 父は夕張東高校の教師で、教員住宅に住んでいたことを記憶しています。 当時のことはわずかですが覚えております。 もう生まれた場所は残っていませんが、私にとっては生涯の故郷となっています。 工藤 央 damiansourn@excite.co.jp…
番外編••••••KR 省からのメール |高橋正朝 #83 続・大夕張つれづれ

番外編••••••KR 省からのメール |高橋正朝 #83

KR 省というのは、旧 K 省と旧 R 省が統合されてできた組織である。    このような書き方をしたのは、SNS やユーチューバーの画面を見てマネをしてみたわけです。    それらユーチューバーたちは、ニューヨーク州の弁護士試験合格を夢見ている、日本人 K 氏のことを、当初は本名で出していたが、昨…
昭和45年頃 購買会 思い出の街角

昭和45年頃 購買会

昭和45年頃、購買会。陽射しの強い昼さがり。 母が勤めた購買会 【高橋勝美】  栄町ブロックでしたので、買い物は購買会でした!  母が、肉屋-惣菜も売ってました-働いていました。ですから私は鍵っ子でした。小学校の帰り道に時々、母の務め先に顔を出してました。 購買会  【飯田雅人】 大夕張で日常使うも…
人生で一番、楽しかった頃 | 村岡(旧姓・雨森)由喜夫 随想

人生で一番、楽しかった頃 | 村岡(旧姓・雨森)由喜夫

 昭和20年代後半に遠幌の炭鉱住宅に住んでいました。  父は雨森康男、中学校の先生(英語)、母は艶、大夕張炭鉱診療所で歯科医。    私と弟は遠幌保育園でした。  雪の情景が、あの頃ラジオから流れた「雪の降る町」の唄と共に必ず瞼に浮かびます。   小学校の裏には熊が出るので銃を構えた案山子があったこ…
三菱・夕鉄 バス停留所 2丁目3番地

三菱・夕鉄 バス停留所

昭和の大夕張、バス停留所を作って(描いて)みた・・・。 地図のネタになるか、空想の街のジオラマを彩る一素材になるのか。 用途は定かではない笑。   それはともかく実際の写真やビデオに写りこんでいるものを参考にした。 昭和30年代から昭和40年頃の自分がいた街がベースになる。 当時の三菱バス停の標識は…
写真の声|斎藤敏幸 随想

写真の声|斎藤敏幸

『岳富町商店街と「しがい」』のコメントに「千歳町」を「しがい」と呼んでいたとありましたね。 僕の周りでも確かに「しがい」呼んでいました。 子供の頃は,街のはずれにあるから「市外」なんだろうと思っていました。 でも、飲食関係の商店街も沢山あったので「市街」だったのかもしれませんね。 武田自転車屋さんの…
岳富町商店街と「しがい」 思い出の街角

岳富町商店街と「しがい」

「しがい」とよんでいた千年町。 その千年町と大夕張駅方面を結ぶ岳富町。昔の人は宝沢と呼んだ。 千年町との往来には、この沢を埋め立てた道を歩いた。 戦後鉄道の築堤沿い建ったバラックの商店は昭和30年代立派な商店街となり、「岳富町」となった。 千年町方面のことを、子どもの頃「しがい」と呼んでいた。 千年…
地図に我が家はないけれど|佐藤正裕 随想

地図に我が家はないけれど|佐藤正裕

昭和43年緑町の住宅地図。 とても懐かしく思いました。 この当時私(昭和36年生まれ)は、拓銀の社宅に住んでいましたので、残念ながら地図には名前が載ってません(^^ゞ (社宅は、拓銀と棟続きだったんです) 拓銀の裏手にも拓銀の倉庫と社宅が一軒あったんですが・・・ やっぱり載ってないのは仕方ないですね…
昭和48年の街 その5 閉山を迎える街

昭和48年の街 その5

昭和48年の街。 山懐に抱かれた街並みの様子を大夕張駅中心に、神社からの風景。 あの日、あの時、神社から見た街のように、駅前通りを行く人、学校のグラウンドで遊ぶ子どもたち、家のそばの空き地、写真の中に新しく見つけたものはあるだろうか。 昭和48年大夕張…
祖父のこと|成瀬健太 随想

祖父のこと|成瀬健太

   私は名寄に住む者です。  自衛隊に身を置いていますが、趣味が炭鉱遺跡巡りなので休暇を用いて知人と共に訪れています。  鹿島地区も何度か探訪したことがあります。   実は、私の祖父がかつて大夕張に身を置いていました。   戦時中に、挺身隊で昭和17年に大夕張入山し、翌年3月感謝状を授与されました…
鹿島東小学校 遠足 学び舎の思い出

鹿島東小学校 遠足

昭和30年(1955年)9月。 祖父のアルバムでこの写真を見たときには、深浦先生らしい先生がいたので鹿島小の行事かと思ったが、よくみると、昭和21年生まれの叔母がいる。 叔母は、当時宝町に住んでいたので、鹿島東小学校に通っていた。深浦先生は、昭和30年鹿島小学校に赴任し同年中に鹿島東小学校に転任にな…
火の用心 | 内川准一 随想

火の用心 | 内川准一

春ですね。 アパート裏手に広がる北大第二農場の雪融けも近い。 ここの雪原は、毎年、ある日突然、一斉に融ける。 そして、土の原(畑)に変わるまでのわずかに2日ほど巨大な沼が出現するのです。  そして、瞬く間に消えてしまうのです。 私はこれに名前を付けています”さまよえる湖、幻の北大湖”これを見た者(新…
病室にて ~祖父のスケッチ帖から~ 絵画

病室にて ~祖父のスケッチ帖から~

昭和14年11月19日。 『病室に於いて」とある。 どこかの炭鉱住宅を思い出して描いたのか、窓から見える風景を描いたのか。   昭和40年代自分が、父を炭砿病院の病室に見舞った時、病院の窓から見えた景色はよく覚えている。 病室の窓からは、東には隔離病棟そして東南方面の住宅地が見えた。 その頃と同じで…
大夕張駅前 歩道橋より 思い出の街角

大夕張駅前 歩道橋より

大夕張に設置された唯一の『歩道橋』から大夕張駅前、栄町商店街方面を見たところ。昭和45年頃。 左手前には消防署・警察署,右手に拓銀、夕張信用金庫。 その奥に郵便局などの金融機関が集まる街の中心部。 保養所前にある夕鉄バス『大夕張駅』のバス停にバスが停車中。 昭和45年頃 歩道橋より駅前…
明石町 バス停 1997 写真

明石町 バス停 1997

1997年5月18日。 もと大夕張鉄道明石町駅舎の前に立つ夕鉄バスと美鉄バスのバス停。 夕張・札幌方面に向かうバス停留所。 10000万人以上人口を数えた昔と同じように、過疎化が進んだ当時も、変わらず最後まで二つのバス会社が乗り入れていたことに驚く。 向こう側が、大夕張・千年町方面。 旭沢にかかる明…
北海道弁••••••いたましい、いたましくない|高橋正朝 #82 続・大夕張つれづれ

北海道弁••••••いたましい、いたましくない|高橋正朝 #82

     〘 もったいない 〙の意味の〘 いたましい 〙は、北海道弁だが、今でも使われているのだろうか?   もう、使われていないような気がするが ••••••。       # 80 で言及した〘 デラデラ 〙は、現在では、あまり使われていないようで、年配者はすぐわかるものの、若年層では、単語だけ…
夕張東高雪祭り 雪像づくり 学び舎の思い出

夕張東高雪祭り 雪像づくり

夕張岳を間近にみる夕張東高グラウンド。 掲載されていた夕張東高20周年記念誌『シューパロ』のキャプションには、『雪祭り 雪像づくり』とある。 私が就職した頃、昭和50年代。学校には、行事としてこのような催しが数多くあった。 子どもたちは、雪の中で、背中にタオルを入れ汗をかきながら楽しい時間を過ごした…
夕張市鳥瞰図(1950年)その2 地図

夕張市鳥瞰図(1950年)その2

吉田初三郎の『夕張市俯瞰図』(1950年夕張市発行)、前回の俯瞰図に続いてその他の部分についての紹介。   表表紙と裏表紙の中折に、『俯瞰図』が折りたたまれ、表表紙と裏表紙の裏は、次の様な地図と写真が印刷されている。   『北炭清水沢発電所』と、『夕張川の渓流』、『鹿島より夕張岳』の3枚の写真があり…
昭和28年 大夕張劇場 思い出の街角

昭和28年 大夕張劇場

 昭和28年(1953年)の大夕張劇場。左端に写っているのは永原呉服店。「呉服大売り出し」の幟が見える。  昭和31年、三菱バス山内線開通後には、『劇場前』のバス停があった。    ここは、四つ角の交差点になっていて、昭和43年頃には、大夕張劇場はすでにパチンコ店になり、西側に、サトミ会館、永原呉服…