思い出ばなし 濃いめの味 |斎藤敏幸 長谷川さんの『食憶』にもありましたが、我家の味付けも塩分の多いものでした。 父は、採炭夫で先山をしていましたので、食卓は一家の大黒柱である父を中心に組立てられていました。 何を食べるにも、たっぷりめの醤油と、極めつきは、『味の素』の山です。 特にサケは「塩引き」といって、焼き上げても表… 続きを読む
思い出ばなし 父がつとめていたコークス場 |山本栄子 発電所の隣にあったコークス場。 私が高校生位の頃迄、父が勤めていました。 二交代の勤務制だったと思います。ある日、雨が降りだし、傘を持って線路沿いに歩いて行った記憶があります。 石油等が輸入されるようになり、コークスの需要が少なくなったせいで、井出組?さんに、渡すという件で、当… 続きを読む
思い出ばなし 緑の中の大夕張駅 | 野口美代子 懐かしの写真の中に、大夕張駅を見て本当に帰って来たと思いました。 停車場(昔私が子供の頃、年寄達は駅のことをこうとも呼んでいた気がします)は人を見送って、見送られ、又会っての繰り返しの場でした。 大夕張駅は、ただただ別れの駅になってしまいました。 札幌へのバスが通るようになって、バス停が… 続きを読む
思い出ばなし 東小向こう岸のアンモナイト化石 | 小林光志 昭和35年ころ(私が中学1年)、毎日、春日町から鹿島中学校まで登校していましたが、時々悪がき仲間と通学路を離れて登校しました。 春は、うど、夏はスイカ、秋は大根人参などずいぶんご馳走になりました。 シューパロ川に沿って、行くこともありました。特に便所場球場から下流は、川沿いに道のないところ… 続きを読む
思い出ばなし 猫とブルドック|林 恭子 岳富町の写真とても懐かしく拝見しました。 私は昭和37年に炭砿病院で生まれ、昭和45年まで大夕張に住んでいました。 千年町に住んでいたので、大夕張駅に卵を買いに行く時、必ず岳富町の道路を通ってました。 あの頃、駅の待合室に卵売りのおじさんがいました。 岳富町の時計屋さんのショーウ… 続きを読む
思い出ばなし サッカーボールの思い出|成松泰彦 中学3年の修学旅行が終わってすぐに転校する事を知っていたが、友人には知らせていなかった。 6月の事だった。 そんな当の本人も、転校の事を知らされたのは、わずか2週間ほど前の事で、心の準備がいた。 何か自分の思い出を残していきたかった。 休み時間になると中庭で、男子も女子も輪になっ… 続きを読む
思い出ばなし シューパロ川の灯籠流し|小野美音子 お盆も過ぎシューパロ川に秋風が吹く頃となりました。 彼岸を渡った魂は、忘れ去られることを寂しがると聞きます。 私には麻疹の予防注射がもとで、赤ん坊の時に亡くなった兄がおり、毎年、妙法寺の灯籠流しに、参加しました。 まだ日の明るいうち、妙法寺には沢山の檀家の人々が集まり、お上人さんを… 続きを読む
思い出ばなし 子亡き夫婦のある日の哀と安堵 | 小野美音子 子供を失った母は、父の出勤後、昔風の舅と狭い家に一緒にいるのを辛く思う時があり、映画館に行ったことがありました。 気兼ねなく涙を流せたからです。 しかしそれも舅の意に染まず、母は妙法寺へ向かいました。 裏からそっと納骨堂に入り、亡き子の骨と共に一夜を明かしました。 父は、夜通… 続きを読む
思い出ばなし 汽笛の目覚まし|今井和弘 私は、昭和38年2月に、富士見町5丁目48番で生まれました。 その後、富士見町4丁目1番、富士見町1丁目13番と引越しをして、昭和47年5月に、ふるさと大夕張を後にすることになりました。 その9年あまりの間、思い出は星の数ほどありますが、ここでは4丁目の家での思い出について書きたいと思います。… 続きを読む
思い出ばなし 大夕張の想い出 | 早坂治敏 自己紹介:昭和26年に生まれて、ずーっと弥生町に住んでました。 鹿島小学校に昭和33年度入学。昭和38年度卒業。 鹿島中学校に昭和39年度入学。父の転居で昭和39年10月17日に大夕張を離れる。 以上が、私が生まれて13年余過ごした大夕張時代です。 小学校時代の恩師の名前は今も記憶してい… 続きを読む
思い出ばなし 営林署官舎 | 片山利明 千年町の営林署官舎位置(赤枠) 私の父は営林署に勤務しており、私も昭和43年ころ、千年町の官舎に住んでいました。(父の弟は、鹿島東小の教師でした) 私は、昭和38年生まれで、幼稚園から小3まで大夕張に住んでいました。 5年程前に鹿島東小(3年で転校しましたが)の跡地をみて、もの悲しい思い… 続きを読む
思い出ばなし 営林署のアルバイト | 大阪の小林 昭和50年頃 三菱南大夕張鉱業所とともに、南部貯木場が大きく広がる 小生は、昭和40年7月中旬から、8月中旬までの1ヶ月間、南部にありました大夕張営林署の南部貯木場で、大学の友人2人と共にアルバイトをしました。 当時の貯木場の写真や、写真をお送りした経緯はこちらのホームページにもアップロード… 続きを読む
思い出ばなし 「べんじょば球場」の思いで|成松 泰彦 緑町と弥生町との境界の道路を春日町の方に降りていくと、つり橋があったのを覚えてますか? そのつり橋を渡ったところの球場が、なぜかしら《べんじょば球場》と、呼ばれていました。 私の父はハンターでもありまして、熊が出没したという連絡が入れば、熊退治に出かけて、よく射止めてきたものです。 当… 続きを読む
思い出ばなし 鹿島国民学校時代と戦後の思い出|T・A 鹿島小学校グランドは、大夕張住人にとって、最大のコミュニケーションの場所でした。 カエデの木は、その歴史を見つめてきたのです。 昭和17年、国民学校入学。その頃の出来事・・・。 戦前戦中の児童は、校門を通るとき教会のあった場所の奉安殿に向かって、お辞儀をしてから校内に入るのが習慣であった。 … 続きを読む
思い出ばなし 山祭りの御輿かつぎ |内川准一 「山祭り」の陽気に誘われて出て参りました。 さて、忘れもしない御輿担ぎ。 出発は弥生町の詰所裏。 到着場所は、千年町のさてどこだったっけ?という程度の記憶ですが。 この日のために、詰所裏の倉庫?から、一年ぶりに引きずり出されるのは、鳳凰のついた立派な御輿。 これを… 続きを読む
思い出ばなし 春日町と栄町のくらし|小林俊治 鹿島春日町45番地?詰所のすぐそばの家に住んでいました。(昭和29年生~昭和42年まで) 当時は、子供同士なぜか、広場に集まるのが日課で、知らないうちに毎日違った遊びを考えて、遊んでいました。 今考えると、川向こうの沢に入って、ヤマメ釣や川泳ぎをしていましたが、熊に会わなかったのが不思議でし… 続きを読む
思い出ばなし 運動会には タンポポと馬糞 |片岡利明 私が小学生の頃(S43年頃)には、まだ馬が現役で活躍しており、当然、道のあちこちに馬糞が落ちていました。 運動会が近くなると、 『足にタンポポの汁をなすりつけ、馬糞を踏みつけると足が早くなる』 という迷信があり、運動足袋(今はないですね)を真黄色にして、走ったものでした。 馬糞も、運… 続きを読む
思い出ばなし 共に過ごした先生方|長谷川ヒロ子 今年、88才になった叔母です。下にもあるように、昭和29年(1954年)から四年間、鹿島東小学校に勤務していました。 その時の同僚だった方々の名前を思い出してくれました。記憶の中の先生達です。 共に過ごした先生方 【長谷川ヒロ子】 大方の先生は、鹿島小学校から異動してきましたが、私は最初から鹿島… 続きを読む
思い出ばなし 荒川商店の思い出 | 小野美音子 人懐っこい丸顔のおばさんは、いつも笑顔で店番をしていました。 マンボ、くじ、おもちゃの指輪、ジュース、駄菓子など子供には楽しいお店でした。 母と寄ると、くじをタダで引かせてくれ、それが最近不思議に、思い出され、母に聞くと、千年町あたりでおばさんが友人と会う時、仕事を終え、急ぎ支度で出て来て… 続きを読む
思い出ばなし 冬の思い出 | 内川准一 今日は今年一番の寒い日でした。盆地の大夕張は、今頃、一段としばれて、青くかすんでいるのでしょう。 こんな日は、ストーブ(確か白熱ストーブと言ったような)をいくらたいても暖かくならず、熱は煙突と天井の隙間からみんな外に逃げていくのでした。 全くボロな家に住んでいたものです。 毎朝、丹前の縁に息… 続きを読む