回想・随筆

日々生活の中で、ふと、あの日、あの頃を思い出す。ふと書き留めてみた過去の出来事、思い。

位牌堂(地蔵堂)|内川准一 随想

位牌堂(地蔵堂)|内川准一

 建物が無くなったはずの大夕張に、この春(2002年)まで、実はひとつの建物があった。  千歳町の火葬場に至る道路脇にあった位牌堂(地蔵堂)だ。    あったと言うのは、この春、雪の重みで倒壊してしまったから・・・    中に納められていた位牌2千7百は、散乱しないよう4体の地蔵と一緒に倒れた建物ご…
乾電池 その2  |  高橋正朝  #53 続・大夕張つれづれ

乾電池 その2  | 高橋正朝 #53

    私が、鹿島東小学校4年生のときである。  シタジキをこすって静電気を起こし、細かく裂いたチリ紙をくっつけてみたり、同級生の頭の上にかざして、髪の毛を逆立てたりして、遊んでいた。       当時のクラスの男児の多数は坊主頭である。  25人ぐらいいたクラスの男児のなかで、坊ちゃん刈…
緑町浴場帰りの兄 |小野美音子 随想

緑町浴場帰りの兄 |小野美音子

   「宝の沢探検」を愛した私の兄、伸也は、大人になっても仲間と川上りで秘境の滝を再発見し、日本の滝百選に応募し選ばれたり、アラスカに行き、ローカルな新聞やTVに出て、母を喜ばせる、ゴッツい山親爺になりました。   そのコワモテの風貌は、新聞屋の親戚の役にも立ち、お金を払わない客の家の玄関に、兄がヌ…
煙草の話|Kawauchi Masami 思い出の記

煙草の話|Kawauchi Masami

   大夕張の職人さんは殆どくわえタバコでしたね。   一つのファッションでした。  工場内は、煙草吸ってましたし、今、思い出しても、煙草を吸っていない男の人いませんでしたね。  禁煙の記憶有りません。   南大夕張は、進発所に電気コンロが置いて有って、煙草に火をつける人もいました。  でも殆どの人…
学のある話 |丸山直記 随想

学のある話 |丸山直記

 子供のころから私はクラシック音楽が好きでした。  今でもオーケストラでチェロを弾いています。  あのころ大夕張ではチェロなぞ目にすることもなかったので感慨深いものがあります。  そう言えば、中学校の音楽の先生で、上村先生がヴァイオリンを弾かれ、教えていたのを覚えています。  上村先生はその後、札幌…
子亡き夫婦のある日の哀と安堵 | 小野美音子 思い出ばなし

子亡き夫婦のある日の哀と安堵 | 小野美音子

 子供を失った母は、父の出勤後、昔風の舅と狭い家に一緒にいるのを辛く思う時があり、映画館に行ったことがありました。    気兼ねなく涙を流せたからです。    しかしそれも舅の意に染まず、母は妙法寺へ向かいました。   裏からそっと納骨堂に入り、亡き子の骨と共に一夜を明かしました。    父は、夜通…
乾電池 その1|高橋正朝 #52 続・大夕張つれづれ

乾電池 その1|高橋正朝 #52

 この投稿を書き始めたとき、我々の年代が、子どものころのナショナルとサンヨーのロゴマークを貼り付けましたが、結論として、それらのロゴマークの貼り付けをやめました。       理由は、ロゴマークにも著作権があるからです。  著作権の例外使用からすると、『 ふるさと大夕張 』のようなものの記事のなかで…
七夕の思い出|工藤 央 随想

七夕の思い出|工藤 央

 明石町に昭和45年6歳時まで過ごしていた工藤と申します。  父は夕張東高の教師をしており、校門脇の教員住宅に住んでおりました。    夏場にはバレー部の顧問をしていたため、よく生徒の方が合宿といってうちに泊まりこんでいたのを覚えています。    さて七夕の思い出といえば、明石橋の上から使命を終えた…
あの町が |ヤス 随想

あの町が |ヤス

あの町が忘れられません。 初恋。 今でも覚えてます。久保田美枝さん。   間もなく人生の終わり? ・・・・大夕張を出てから何年過ぎたかな?   今でも鮮明に覚えてますよ。   自分は今では、女房、子供、孫まで居ますが、 貴女は?元気でしょうか? 多分この掲示板には気がつきませんよね?   達者なら何…
湯浅先生 エピソード|Kawauchi Masami 思い出の記

湯浅先生 エピソード|Kawauchi Masami

 担任していた桜組の野球チームまで作った湯浅先生 面白い先生でした。『湯浅純治先生のこと』のところでも紹介しましたが、その他のことも思い出したので、書きたいと思います。    授業中、私には難題の算数を、黒板で解くと、 「カワズ、体育館見てこい」と、言われ、見て来て、「空いてる」と 伝えると、 ご褒…
5寸釘 その2|高橋正朝 #51 続・大夕張つれづれ

5寸釘 その2|高橋正朝 #51

 私が、鹿島東小学校の3年生のとき、誰に教わったのか覚えていないが、5寸釘とエナメル線を利用して、電磁石をつくったことがあった。       この電磁石をつくる遊びは、私の周囲では男児だけだった。  ただ、この遊びは、学校の教室でするよりも、各自が家に帰ってするのが普通で、遊びといっても、簡単にでき…
桜組野球チーム |Kawauchi Masami 思い出の記

桜組野球チーム |Kawauchi Masami

昭和40年、鹿島小学校グラウンド、バックネット前 白黒写真に着色した画像 私は前列中央   バックネットの後ろにテニスコート、スキー場、富士見町の住宅がみえる。    私達、鹿島小学校、桜組は野球部が有りました。  1軍と2軍がありまして、鹿島東小学校の選抜チームと試合をするのに、東小学校まで行きま…
汽笛の目覚まし|今井和弘 思い出ばなし

汽笛の目覚まし|今井和弘

 私は、昭和38年2月に、富士見町5丁目48番で生まれました。  その後、富士見町4丁目1番、富士見町1丁目13番と引越しをして、昭和47年5月に、ふるさと大夕張を後にすることになりました。  その9年あまりの間、思い出は星の数ほどありますが、ここでは4丁目の家での思い出について書きたいと思います。…
5寸釘 その1 |高橋正朝 #50 続・大夕張つれづれ

5寸釘 その1 |高橋正朝 #50

 当時、5寸釘は貴重なものだったが、たいていの男児は、どこかで見つけたものを持っていた。  5寸釘を利用した簡単な遊びは『 釘刺し 』である。    それほど流行した遊びではなかったが、私の年代の小学校低学年の男児は、わりとよくやっていた。 しかし、女児は、その遊びをしているのを、私は見たことがない…
大夕張の想い出 | 早坂治敏 思い出ばなし

大夕張の想い出 | 早坂治敏

 自己紹介:昭和26年に生まれて、ずーっと弥生町に住んでました。  鹿島小学校に昭和33年度入学。昭和38年度卒業。  鹿島中学校に昭和39年度入学。父の転居で昭和39年10月17日に大夕張を離れる。  以上が、私が生まれて13年余過ごした大夕張時代です。   小学校時代の恩師の名前は今も記憶してい…
父の無念と別れ |森田伸一 随想

父の無念と別れ |森田伸一

 私は昭和37年大夕張の栄町で生まれました。  その後、春日町に引越し、小学校3年生まで大夕張に住んでいました。  今は、山梨県に住んでいます。   閉山を前に炭坑夫の父は、右目に重傷を負い失明してしまい、炭坑夫の生命を絶たれてしまいました。   鹿島を断腸の思いで、離れることになったのです。   …
営林署官舎 | 片山利明 思い出ばなし

営林署官舎 | 片山利明

千年町の営林署官舎位置(赤枠)   私の父は営林署に勤務しており、私も昭和43年ころ、千年町の官舎に住んでいました。(父の弟は、鹿島東小の教師でした)  私は、昭和38年生まれで、幼稚園から小3まで大夕張に住んでいました。    5年程前に鹿島東小(3年で転校しましたが)の跡地をみて、もの悲しい思い…
こころにある故郷|長屋敏子 随想

こころにある故郷|長屋敏子

『林鉄』(りんてつ)の名前が、載っておりました。  今は亡き父母の言葉に出あったように、懐かしい言葉の響きがあります。  ちなみに母は、千年町で『喜多乃屋』の屋号で、そば屋を営んでおりました。  今も年に一度、何も無い家の跡地を訪ねます。   昭和25年頃から48年頃までの思い出が、心に刻まれており…
やまのむこうは? | 丸山直記 随想

やまのむこうは? | 丸山直記

 私は、昭和23年6月10日に緑町で生まれました。   その後、鹿島小学校の裏側の住宅に移り、鹿島小学校、鹿島中学校、夕張東高校を経て、卒業するまで18年間住んでおり、私の精神形成は、純粋に大夕張でなされました。    子供の頃は、頭の中では世界は広いのですが、実感は全く無く、周りの山々の向こうには…
ポンプ その3 | 高橋正朝 #49 続・大夕張つれづれ

ポンプ その3 | 高橋正朝 #49

 鹿島東小学校の4年生だったか5年生だったか、ハッキリしないが、いずれにしても、冬のときです。  家に誰もいないとき、ある実験をしました。     真空をつくる実験です。       トリチェリーの真空なんて言葉は全く知らない。  それなのに真空をつくった、というのは、私のボンクラな頭でその方法を思…