続・大夕張つれづれ 5寸釘 その1 |高橋正朝 #50 当時、5寸釘は貴重なものだったが、たいていの男児は、どこかで見つけたものを持っていた。 5寸釘を利用した簡単な遊びは『 釘刺し 』である。 それほど流行した遊びではなかったが、私の年代の小学校低学年の男児は、わりとよくやっていた。 しかし、女児は、その遊びをしているのを、私は見たことがない… 続きを読む
思い出ばなし 大夕張の想い出 | 早坂治敏 自己紹介:昭和26年に生まれて、ずーっと弥生町に住んでました。 鹿島小学校に昭和33年度入学。昭和38年度卒業。 鹿島中学校に昭和39年度入学。父の転居で昭和39年10月17日に大夕張を離れる。 以上が、私が生まれて13年余過ごした大夕張時代です。 小学校時代の恩師の名前は今も記憶してい… 続きを読む
随想 父の無念と別れ |森田伸一 私は昭和37年大夕張の栄町で生まれました。 その後、春日町に引越し、小学校3年生まで大夕張に住んでいました。 今は、山梨県に住んでいます。 閉山を前に炭坑夫の父は、右目に重傷を負い失明してしまい、炭坑夫の生命を絶たれてしまいました。 鹿島を断腸の思いで、離れることになったのです。 … 続きを読む
思い出ばなし 営林署官舎 | 片山利明 千年町の営林署官舎位置(赤枠) 私の父は営林署に勤務しており、私も昭和43年ころ、千年町の官舎に住んでいました。(父の弟は、鹿島東小の教師でした) 私は、昭和38年生まれで、幼稚園から小3まで大夕張に住んでいました。 5年程前に鹿島東小(3年で転校しましたが)の跡地をみて、もの悲しい思い… 続きを読む
随想 こころにある故郷|長屋敏子 『林鉄』(りんてつ)の名前が、載っておりました。 今は亡き父母の言葉に出あったように、懐かしい言葉の響きがあります。 ちなみに母は、千年町で『喜多乃屋』の屋号で、そば屋を営んでおりました。 今も年に一度、何も無い家の跡地を訪ねます。 昭和25年頃から48年頃までの思い出が、心に刻まれており… 続きを読む
随想 やまのむこうは? | 丸山直記 私は、昭和23年6月10日に緑町で生まれました。 その後、鹿島小学校の裏側の住宅に移り、鹿島小学校、鹿島中学校、夕張東高校を経て、卒業するまで18年間住んでおり、私の精神形成は、純粋に大夕張でなされました。 子供の頃は、頭の中では世界は広いのですが、実感は全く無く、周りの山々の向こうには… 続きを読む
続・大夕張つれづれ ポンプ その3 | 高橋正朝 #49 鹿島東小学校の4年生だったか5年生だったか、ハッキリしないが、いずれにしても、冬のときです。 家に誰もいないとき、ある実験をしました。 真空をつくる実験です。 トリチェリーの真空なんて言葉は全く知らない。 それなのに真空をつくった、というのは、私のボンクラな頭でその方法を思… 続きを読む
随想 鹿島小学校解体ときいて | 小林秀範 解体工事 標識 期間(平成11年11月1日~12月15日) 鹿島小学校が取り壊されるとの事、 本当に本当に・・・・・さびしいです。 今月ですか? 昨年、私は、親友2名とグランドでキャンプをしました、 今年も、と思っていたのですが、なかなか予定がつかずにいます。 親友は、田森睦夫、遠藤直樹… 続きを読む
随想 私の大夕張 |菅井宏史 昭和33年の富士見町6丁目付近の地図に、赤い線で位置を示したもの。写真は、1997年6月撮影。木と、道の跡が残る。 思わず懐かしさがこみ上げ、『ふるさと大夕張』を見ている内に、色々と当時の思い出が蘇ってきました。 私は、昭和33年に大夕張の常盤町で生まれ、4歳か5歳の時に(昭和37年か3… 続きを読む
思い出の記 親父のものがたり |Kawauchi Masami よくわかりませんが、親父は、いいとこの坊ちゃん、らしいのです。 家は軍馬を育てる大地主で、お祖父様は、沼崎部隊々長でした。大きい家で使用人も沢山居たらしく、お祖父様の名前は、沼崎一男といいます。 結婚していた沼崎一男は、西田さんという 妾を作ります。 なんの縁か、母親は若い時に一人で行ってま… 続きを読む
随想 初音沢地区 |目黒則男 我々住民は初音沢と言っていましたが、鹿島地区の人々は官行と言っていたようです。 チップ工場、ボタ山、その麓にあった炭鉱用資材を製造する工場、そのあたりを初音沢と呼んでいました。 私の父が、炭鉱用の資材を製造する会社に勤務していた関係で、現地の社宅に住んでいました。 通学には大変苦労した記… 続きを読む
続・大夕張つれづれ ポンプ その2 | 高橋正朝 #48 私が鹿島中学校の2年生か3年生のときである。 学校から帰った夕方の4時ごろで、家には私1人だけで、妹弟は遊びに出ていていなかった。 テレビを見ようと思い、スイッチを入れた。 明石町番外地は、テレビ放送の受信状況が悪く、そのときは特に HBC と STV の画面の映りがよくなかった… 続きを読む
思い出ばなし 営林署のアルバイト | 大阪の小林 昭和50年頃 三菱南大夕張鉱業所とともに、南部貯木場が大きく広がる 小生は、昭和40年7月中旬から、8月中旬までの1ヶ月間、南部にありました大夕張営林署の南部貯木場で、大学の友人2人と共にアルバイトをしました。 当時の貯木場の写真や、写真をお送りした経緯はこちらのホームページにもアップロード… 続きを読む
随想 故郷を連想するうた | 野口美代子 近くに住む人は気軽に、遠くに住む人も距離も時間もなんのそので大夕張へ行く。 25年会の便りを読んで私も思いは大夕張へ。 大夕張を思い出す歌のひとつに「懐かしのバァージニア」というのがあります。 ちょつと昔、流行ったので、お若い方達は、ご存じないかと思いますが。 バァージニアを大夕張に置き換… 続きを読む
随想 大夕張への想い | 目黒則男 昨年6月、父の病気のお見舞いのため、静岡から札幌の実家を訪れました。 そのおりに母から、 「鹿島小学校が廃校になるみたいだよ。」 と聞かされた。 続けて、 「大きなダムができて大夕張が沈むみたいだよ。」 の言葉に一瞬なんのことか、すぐには理解できませんでした。 私が18歳の頃、大夕張から札… 続きを読む
随想 昭和50年代大夕張と大聖寺解体法要|KAZ 札幌市在住の27歳会社員です。 私も一時大夕張に住んでいたことがあり、懐かしさのあまりすべてのページを印刷し、ファイリングして飾ってあります。 諸々の事情で当時住んでいた札幌の団地から、親元を離れ祖父母の住んでいた大夕張に、私一人預けられ、そこで幼年時代を過ごしました。昭和51年頃だと思… 続きを読む
続・大夕張つれづれ ポンプ その1 | 高橋正朝 #47 例によって、飯田さんが編集した写真をコピペ。 昭和43年鹿島東小学校周辺住宅地図 前回、汽車通学の項で、清水沢駅で、夕工高に行くのに、夕鉄に乗り換え、と書きましたが、奥山道紀さんから、夕鉄でなく、国鉄夕張線だという指摘がありました。 そのとおりです。 間違いをお詫びいたします。 … 続きを読む
随想 便所場球場 |岡本雅志 昭和43年8月9日。 私の誕生日に大夕張駅前のメインストリートを出て東京へ引っ越しました。 私は小学校6年の夏休みまでしか大夕張にはいませんでしたが、私の兄、姉は皆、鹿島小学校→鹿島中学校を卒業しています。 当ホームページに寄稿されている小林光志氏の紹介で、大夕張のホームページの存… 続きを読む
随想 懐かしき「大夕張」| 結城雅司 神奈川県川崎市に在住しています。 昭和34年1月、大夕張千年町にて生を受け、3歳まで居住しておりました。 その後、夕張市旭町、札幌市、東京都をへて、現在に至っております。 たまたま、道内のHPを見ていましたら、飯田様の「大夕張」HPを見つけ、拝見したところです。 数々の写真・メール等を拝見… 続きを読む
思い出の記 不思議な話|Kawauchi Masami 昭和35年 私が幼稚園の頃、外で遊んでいる時の事、家の前の下水に、ミミズがいて、私は小便をかけ遊びました。 その夜、チンチンの先が赤く腫れ上がり、痛みました。 父さんに、言ったら 「お前、ミミズにオシッコ かけなかったか?」 と聞かれ、私が 「かけた」 と、言ったら 「明日、ミミズに ゴメ… 続きを読む