思い出の街角 夕張東高等学校 晩年の校舎 明石町駅の横の道を上った高台に夕張東高校は建っていた。 1983年(昭和58年)に閉校となった後、母校跡には記念碑が立っていた。 そしてダム完成後は、鹿島眺望公園として大夕張にあった碑が集められた。 『ふるさと大夕張』(1丁目1番地)には昭和45年頃の写真としていたが、今見ると、体育館の窓ガラスの様… 続きを読む
街の行事 坂道を春日町から弥生町へ登る山神祭神輿 その2 この神輿の先頭を行くのは、『坂道を春日町から弥生町へ登る山神祭神輿』の写真。 神輿のあとに馬に乗った神主さんのような人物が続く。 『ふるさと大夕張2丁目3番地』で紹介している写真や動画の中にも、山神祭の行列の中に馬が登場してくるが、そもそも子どもの頃から今までどんな隊列を組んで行列していたかなど… 続きを読む
思い出の街角 大夕張生協 1997 『CO-OP 大夕張生協』の建物に大きく書かれた文字。 さすがに何度も塗替えられてきただろうけれど、古くなっていたとはいえ、往時と比べても建物自体の雰囲気は変わっていなかった。 昭和28年に店舗6坪で発足した生協が発展をとげ、昭和36年(1961年)10月に敷地面積を314坪に広げたその際… 続きを読む
思い出の街角 営林署苗畑 営林署苗畑。炭鉱病院の裏手から対岸。この林道をしばらく行くと磯次郎の沢に沿って奥に続く。 子どもの頃、この道をジープに乗せられていったことがあるような気がする・・・。 ガタガタの曲がりくねった道を山の奥に向かい、谷は深く、川は細くなり、木が茂った。 せまく砂利の敷かれた道を、川の上にか… 続きを読む
写真 秋のシューパロ湖と夕張岳 夕張岳の麓の景色は、人間の手により三度その様相を変えた。 大夕張炭砿北部開闢以来のシューパロ川の蛇行により生み出された峡谷に刻まれた谷と台地の時代。 昭和30年代の大夕張ダム建設によりできた、深い谷の隙間を水面(みなも)が埋めたシューパロ湖の時代。 そして今、平成の巨大なダムが、谷も… 続きを読む
写真 湖畔の森林鉄道橋 秋 シューパロ湖対岸の桜ヶ丘地区にかかっていた森林鉄道の橋梁群の一つ。 三弦橋を一号として、夕張岳直下に向かって六号までの橋があった。 大夕張からいくと、湖畔亭対岸付近から三弦橋までの間に、四号から二号までの三つの橋が見えた。 上部がトラス型をした鉄橋は、湖畔亭対岸の四号橋(前回… 続きを読む
音の風景 三菱大夕張炭鉱社歌 メロディ譜 制定 昭和45年1月 作 詞 打谷広臣 作 曲 米山正夫 編 曲 重松岩雄 北国の 空あおき地に 光あふれて 石炭(すみ)はかがやく 緑十字の旗ははためき われらの力 ここに集まる みよ 夕張岳のあかつきを 三菱大夕張に未来あり 風雪の いくたびあれど ピックの鼓動 消ゆることなし… 続きを読む
学び舎の思い出 鹿島中学校校舎(昭和53年~閉校まで) 昭和53年(1978年)4月、鹿島小学校の校舎を分割して、中学校校舎として常盤町校舎から移転。 常盤町の校舎は用途廃止として解体された。 この時の生徒数110人、4学級編成だった。 鹿島小学校舎の中庭を境に南側半分が中学校の校舎として使用され、正面玄関は鹿島小学校のグラウンド… 続きを読む
思い出の街角 南部独身寮 昭和40年(1965年)、『大阪の小林』さんが一夏を過ごした南部貯木場の独身寮。 当時の南部独身寮とのかかわりについて、小林さんは『懐かしき貯木場(南部)』の中で、次のように書いている。 小生は昭和40年の一夏(七月中旬から八月中旬まで)南部にありました営林署の貯木場で、大学の友人二人と共にアルバイ… 続きを読む
楽しかった日々 昭和30年頃 川遊び 昭和30年頃(1955年)のシューパロ川での川遊び。 丸刈り頭の男の子が元気に走る。 川で遊ぶときは、素っ裸、あるいは褌というの姿は、ふつうに見ることができただろう。 白黒写真に着色した画像 … 続きを読む
思い出の街角 明石警察官駐在所 昭和45年 明石町駅近くの通りに面して建っていた駐在所。 『明石警察駐在所』の看板がかかる。 掲示板には、空き巣にに入ろうとしている泥棒のような人物と鍵のマーク。 『鍵をかけましょう』という呼びかけだろうか。 人の多かった大夕張では、当時鍵をかけていても、空き巣に入られることがあった。 … 続きを読む
思い出の街角 栄支所裏手富士見町 かつて大夕張鉄道の歴史を記した『山史』のホームページがあった。『山史』を編纂された菊池さんの息子さんである審人さんが作成されていたもので、貴重なサイトだったが今はない。 その中に掲載されていた懐かしい一枚だ。たぶん閉山前後の写真だろう。 大夕張炭山をゆっくりと発車した石炭列車は少しずつスピ… 続きを読む
思い出の街角 三菱大夕張炭砿病院 昭和49年頃《カラー版》 白黒写真に色を付けると、立体感や臨場感が増し、当時の様子が生き生きと蘇ると言われ、昨日の新聞にも、どこだかの大学が、関東大震災の時の写真をAIと人の手による着色で、当時の記憶が生々しく蘇ったなどという記事が載っていた。 着色作業をしていて、色付けしたばかりに却って侘しさ寂しさを感じる写真があ… 続きを読む
楽しかった日々 常盤町を背に|遠藤義博 私は昭和27年(1952年)産まれです。 子供の頃、常盤町に住んでました。 昭和55年に千歳市に住んでいて、鹿島中学校まで家族でドライブに。校舎も取り壊されグラウンドで、フキ採りをしたのが大夕張の最後の思い出です。その時は、大夕張が水没するとは思っていなくて、今考えると残念です。 今… 続きを読む
思い出の街角 歩道橋から錦町方面 ~鹿島小学校前踏切~ 歩道橋から撮影した錦町方面の写真。 手前には、今まさに鹿島小学校前の踏切にさしかかる列車、先頭の蒸気機関車のプレートも『No.5』と読める。 大夕張駅に到着だ。 その背景、写真の右手には、鹿島小学校の木造体育館が見えている。昭和53年に新体育館ができるまで、大夕張の子どもたちの体育や… 続きを読む
思い出の街角 三菱大夕張炭砿病院 昭和49年頃 写真すぐ左手の大夕張炭山駅から一日に何度も石炭を運んで行き来していた鉄道は、すでに撤去されてない。 閉山翌年の頃だろうか。 炭砿病院前のかつての線路の周囲に伸びた雑草が、失われた活気の大きさを感じさせる。 右手正面玄関の上には、「三菱大夕張病院」の文字。 … 続きを読む
学び舎の思い出 鹿島中学校 球技大会 その2 昭和46年3月卒業の鹿島中学校卒業アルバムから。 「球技大会」とタイトルを打たれたページの一コマ。 アルバム編集委員のつけたコメントには、「何こちゃこちゃやってるの」というコメントが付けられている。 確かに、何をしているのとツッコミを入れたくなるけれど、おそらくサッカーの試合だったのだろう。… 続きを読む
思い出の街角 鹿島自動車整備工場・自動車教習所前 千年町から明石町に向かうと、明石橋のすぐ手前のあたり、左手に大きなの看板と建物がたっていた。 周囲には整備を待つ車だろうか、トラックや乗用車などが数多く駐車していた。 看板には『鹿島自動車整備工場』と書かれている。 ここからやや先に、左に曲がっていく道路があった。 そこは自動車教習所だったと… 続きを読む
思い出の街角 明石町 番外地 「大夕張つれづれ」や「続大夕張つれづれ」の執筆者、高橋正朝さんが過ごした明石町番外地付近、平成の頃。 大夕張から明石町駅を過ぎ、道路に面した家々の並びが途切れると、岩野石油が見えてくる。 このガソリンスタンドと、砕石が敷き詰められたゆるやかなカーブの道が心に残る。 ここまでくると本… 続きを読む
思い出の街角 明石橋銘板 千年町から明石町にさしかかる手前の明石橋。 子どもの頃、道路をバスが行き来するようになって、鉄橋で渡った時の目のくらむような高さを、ほとんど意識することもなく、この橋の上を何度往復していたことだろう。 その後、幾度かこの橋の上に立って周囲を見渡したことがある。 山側を見ると鉄道の旭沢鉄橋(5… 続きを読む