思い出ばなし 私の大夕張時代 | 長谷川ヒロコ ここに寄稿してくれたのは、私の叔母です。 昭和8年生で、今年88歳になりました。字も達者で大判の原紙に細かい字で書いて送ってくれました。 子供時代から20代までを大夕張で過ごし、昭和28年から鹿島東小学校の教員として勤務していました。 私が幼かった頃(昭和34年ころ)、富士見町線路脇の住宅で… 続きを読む
思い出ばなし 子どもの記憶 |菅井宏史 長谷川さんが大夕張時代の「食憶」をお持ちのように(「食憶」シリーズいつも楽しく拝見してます)人それぞれ大夕張の、あるいは大夕張時代の一連の記憶というものがあるのかもしれません。 昭和30年代後半から、40年代前半が、私の大夕張の記憶の全てなのですが、あの時代の思い出といえば(これは大夕張の記憶… 続きを読む
思い出ばなし 時代を支えた馬 | 泊川俊徳 戦前から昭和40年過ぎまで、随分、馬が活躍してくれました。 戦時中は、炭鉱坑内の『石炭運搬』、街の中では、『運送屋』、日本通運・鹿島通運の荷物の運送、又、当時 トイレのバキユームカーの代わりに、馬車に大きい木製の箱に、ウンチを入れて、通称『便所場球場』へ運び、川へ流しました。 夏は『馬車』。 … 続きを読む
思い出ばなし 節分の思い出 | ziny 石炭ストーブの上で、大豆を炒って 「鬼は外・福は内」 と豆をまき、自分の年の数の豆を食べるというのは、どの家も同じだったと思うのですが・・。(我が家はストーブも何度目かにはフジキ式ストーブになった。) でも、食べた分とは別に、年の数だけの豆をチリ紙に包み、近くの四つ角へ置きに行くというのは、ほ… 続きを読む
思い出ばなし 『三菱君』とご近所さん|斎藤 敏幸 以前、TVの「琴姫様」も話題にあがっていましたが,僕もTVにまつわる思い出があります。 まだ、栄町にブロック住宅が建つ前の話なのですが、普段は倹約家の父が何を思ったのか、三菱マークのTVを長屋で一番最初に買ったのです。 さあそれからが大変。 朝となく夜となく、ご近所さんが、我家にやって… 続きを読む
思い出ばなし 乙女の姿・・・ |ziny この寒い時期は家の中で遊ぶことが多く、昔、お正月はカルタ遊びで過ごした方も多いと思います。 我が家では、よく百人一首をしました。 また、町内会対抗試合にも、出さされ、詰所の冷たい畳の上で戦いをした記憶があります。 1チーム3人で、攻め(5,6枚)、中堅(15枚くらい)、守り(30枚くらい)で… 続きを読む
思い出ばなし 百人一首 |石原賢治 定番の『全国共通かるた』ですが、九州出身のわが家にあったものは、読み札に、公家だの、姫様だの、坊主などの作者の絵がかかれていまして、『坊主めくり』などという、お坊さんには大変失礼な遊びをしていました。 裏にした読み札を、順番に1枚ずつめくり、坊さんを引くとそれまで貯めた札を出し、お姫様が出るとそ… 続きを読む
思い出ばなし 私の断片的記憶|たいこのもりお 時々、大夕張の事を思い出します。 はっきりとした事や、断片的な事や、曖昧だったりですが、投稿させていただきます。 昭和30年代の半ば、鹿島小学校のグランドにサーカスが来て、バイクの曲乗りをした。 冬はグランドに雪像がたくさんあった。 緑町の2丁目に、八木さんという床屋さんがあって、そ… 続きを読む
思い出ばなし 牛乳配達のアルバイト|花田勝則 堀田牛乳では、小学生の頃、何年か牛乳配達のアルバイトをしていました。 夏場はリヤカーで、あるいは自転車で、冬場はそりに乗せて、配達してました。 冬場は、明け方3時・4時の配達で、牛乳が凍らない内に配達しなければなりません。 一度に沢山積んで出発出来ないので、何度か堀田牛乳店に戻っ… 続きを読む
思い出ばなし 『松・竹・梅』&『ゆり』|ziny お正月に「松竹梅」という言葉を耳にすると、小学校時代を思い出します。 鹿島小学校の『組』の名前です。 ・・昭和30年代は、 「松・竹・梅・櫻・菊・桃・藤」 という名前だったと記憶しています。 「すみれ」もありました。 団塊世代では「桐」もあったと思います。 50~55人前後の生徒数。6学年… 続きを読む
思い出ばなし この日を迎えると・・ | jun 思い出されるのは大夕張に生きていた当時の頃。 しばれたね~ 大晦日は家族団欒。 ミカン箱、裸まいり、除夜の鐘。 厳かな雰囲気とウキウキした気分が融け合っていました・・ 年が変って元旦の朝。 湯たんぽから洗面器に水を移して顔を洗い、最初は両親に挨拶。 みんなで神棚にご挨拶。 お年玉を… 続きを読む
思い出ばなし 「琴姫七変化」のチャンバラごっこ|小野美音子 テレビの無かった我が家に、御近所の、木下さん、古山さん、星山さんなど、色々な方が、おもしろそうな番組があると、よく、誘って下さいました。 木下さんの家では、よく「琴姫七変化」を、見に行かせてもらいました。 それはきれいな琴姫さまが、主役で、悪者がでると、七変化してやっつけ、最後には、何事もなか… 続きを読む
思い出ばなし 青春 アルバイトの思い出|ziny 夕張東高校・・・・雪の降った日の登校風景は、砂糖の丘を一列になって登る蟻の行列の様。 一列で前の足跡を踏みながら、雪の坂道を上る様子は、まさに、蟻ですねー・・・、鹿島の勤勉な蟻の姿そのものです。 しかし、暖かい部屋でギターを弾いていたキリギリスもいたかもしれませんが・・。 東高5期、昭和44… 続きを読む
思い出ばなし 子どもたちの冬|ziny 冬、八百五十へ行く道や、神社の上の方には兎の足跡がよくありました。 鹿島小学校の石炭庫、物置?にも、兎とりのハリガネの罠があったような記憶があります。 当時の鹿島の冬の子供たちの仕事は、ジャンプ台作りでした。春日町の坂道・・私はりき(じき)しんの坂でした。道を90度に横切りジャンプ台を作りまし… 続きを読む
思い出ばなし 明石町の思い出 |邦雄 明石町で、昭和27年に生まれて、小学4年迄住んでいました。 幼稚園には、汽車で通い、車中でチリ紙を長く切って、窓から手を伸ばして遊びました。 鹿島東小学校へは徒歩で通いましたが、今思うと自宅からは、2~3㎞くらいはあったのではないでしょうか? 学校帰りは、友達とぶらぶら遊びながら帰宅した事が楽… 続きを読む
思い出ばなし 佐藤キンセイ堂時計店の思い出|小野美音子 懐かしいスピッツのことを思い出しました。 栄町の佐藤時計店の御主人は、髪がオールバックで、片方の眼に黒い筒状のレンズをはめて、いつも修理にいそしんでおられました。 (そのレンズが瞼からどうして落っこちないのか不思議でした^^) 同級生のテッちゃんと、姉のユミちゃんには、幼稚園の頃ずいぶん仲良く… 続きを読む
思い出ばなし 大夕張線路沿いの出店|海好(うみこ) 出店で父に買ってもらった指輪とブローチは、今でも宝石箱に入れて大切にしまってあります。 お面や、カラーひよこも買ってもらいました。 家族みんな浴衣を着て撮った写真があります。(わたしたちこどもは、ひよこを抱いて・・・) 浴衣にひよこ・・・って、8月のお祭りのようです。 そうそう、6… 続きを読む
思い出ばなし 花火の思い出|池田憲治 宝町に住んでいた北沢さんの近くに私の友人が居り、その関係で私も、昭和33年~昭和35年に、花火の打ち上げに行っておりました。 北沢さんはもう亡くなったそうですが、火薬を節約して鉄砲用にも使っていたので、時にはあまり上がらず火の粉が落ちてきて、ゴザの上に並べてある花火の上に身を伏せたりしたもの… 続きを読む
思い出ばなし 聖心幼稚園、鹿島小学校の記憶 |菅井宏史 1998年・・・。 ついに無人の地となった我々のふるさと大夕張。それでもふるさとはふるさと。やはりそうなってもまだ行きたい、行かなければという思いに駆られます。 ただそうしたくてもそうおいそれとは行けない人が多いのも事実です。 私もその一人です。普通はそれで終わりなのでしょう。そうしてその故… 続きを読む
思い出ばなし 戦後まもない頃の母の鉄道の思い出|飯田雅人 私の母から聞いた話です。 『山史』(三菱大夕張鉄道58年史)の中に、「雪害事故」と題して次のような記述があります。 昭和21年3月14日、融雪期にもかゝわらず夕刻より重量ある湿雪が降りはじめ、15日に至るも止まず、蒸気機関車3両をもって運転する。 ラッセル車も及ばず、線路両側は、数メートルに… 続きを読む