三菱大夕張炭砿病院 職員写真

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三菱大夕張炭砿病院

昭和35年頃 三菱大夕張炭砿病院職員写真

 

父と炭鉱病院【飯田雅人】1998年5月

三菱大夕張病院は薬剤師であった父の職場でした。私は小さかった頃,富士見町6丁目下の病院とは目と鼻の先の線路をはさんだ公園のそばの家に住んでいました。

父は昼休みによくご飯を食べにかえってきました。私はといえば、よく父のいた薬局に遊びに行きました。薬局の人や看護婦さん達,みんなよくしてくれて,すもうをとってくれたり,「ジュースだよと」いって,シロップの一種だったと思いますが、それを薄めたのを飲ませてくれたりしました。

そんなことがとっても楽しみで父に会いに,というか、しばしば遊びに行ったものです。今思えば迷惑な話です。

病院中央の入り口を入ると天井の高い玄関があり,2階へ続く吹き抜けの階段がありました。

玄関をすぐに右に曲がると父の勤めていた薬局,左に曲がると事務室でした。左手に職員玄関があり,左手奥に手術室がありました。その厚い扉に閉ざされた手術室の向こう側を子どもの頃,非常に恐い場所のように感じていて,たまに扉が開いていたりすると,そのわずかなすきまからおそるおそるのぞいていたのを覚えています。

2階の耳鼻科と、勝又先生。長い廊下を行くとあった臨床検査室そして,技師の長尾さん。その先にあった父と一緒に入ったことのある浴場など記憶に残っている場所や人たちです。

この 病院には北大や医大から医師が派遣されてきていました。父や母の話では,昭和34,5年頃,札幌医科大学の研修医だった渡辺淳一が医大から派遣されてきていたそうです。昭和40年前後作家として独立し,数年後,直木賞を取った時には,そのことが話題になっていました。

終戦後まもなく,父は東京から大夕張へやってきました。その父が20代の青春時代を送った炭鉱病院。母と知り合ったのもこの病院でした。昭和46年1月25日,この建物の奥に続く病棟の2階の病室で父は46年の生涯を閉じました。

 

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