随想

いまでも今日のことのように思い出せる。あの日、あの時の出来事。 今日につながる昔のこと・・・。

夕張市の鹿島とは|あさのたけお 随想

夕張市の鹿島とは|あさのたけお

 12月24日21時に、関東地方のテレビ局「テレビ朝日」で、映画「北の零年」が放映されるようです。  物語は、明治維新に生きた先人の、大切な歴史上の物語です。  しかし、大夕張住人にとって懐かしい場面が、蘇ることでしょう。途中に夕張岳が映像画面に出てきます。  葬式場面は、冬の凍ったシューパロ湖にて…
鹿島小学校の応援歌|内川准一 随想

鹿島小学校の応援歌|内川准一

 以前から思っていた応援歌の疑問が解けました。     鹿島小学校の応援歌は二つあります。  昭和36年の文集 「松風」 を見ますと、「運動会が6月4日に決まった。」とあり、続けてクラス担任が、 「歌詞が難しすぎて、意味が分からず、練習が前に進まない。」 と嘆いているのが笑えます。 以下はその応援歌…
1978年・大夕張・再会 |斎藤敏幸 随想

1978年・大夕張・再会 |斎藤敏幸

 私は、閉山の前年に当たる1972年3月に夕張東高を卒業しました。  閉山後両親は、函館に居を構えました。  そのためか、大夕張に帰る機会もなく数年が過ぎてしまいました。  大夕張と再会できたのは、1978年の7月でした。  当時私は、釧路に住んでいましたが、職場の研修で札幌に出た時、帰ることができ…
トルコ | 古山園美 随想

トルコ | 古山園美

   10年前、初めてトルコに行きました。  かの有名なカッパドキアにある町に行った時、『大夕張の匂い』を感じました。  それは、街じゅうでたく、石炭のにおいだったのです。  そして、うす紫色の石炭の煙の中に沈んでいるような、夕暮れの町は、まるで大夕張でした。  そして、去年の夏、『20世紀最後の皆…
アオタン |内川准一 随想

アオタン |内川准一

   「千葉県君津市は自分の同期生がいまして、高校卒業以来、約30年同じ職場で勤務しているんですが、この街はカナリ大夕張出身者が多いんじゃないかな?」  ヒロさんの、この文章を読んで、あることを思い出した。  千葉県君津市と東京都の一部では、以前から北海道方言「アオタン」が通用する。と言うこと。  …
河村先生 |千古のみどり 随想

河村先生 |千古のみどり

   学校でお世話になった先生は、沢山いらっしゃいます。  覚えていますか… 鹿島小学校の上の、小高い丘の上にあった『大夕張カトリック教会』を? 『人は何のために生まれ…そして死ぬのだろう…』  あそこへ行ったら、教えてくれるかも知れない…  そんな思いで教会の門を叩いたのは、私が小学生の頃でした。…
鹿島の太陽|ziny 随想

鹿島の太陽|ziny

「黒部の太陽」を観てきました。 「裕次郎の夢」全国縦断チャリティ上映会、に当選して、さいたま文化センターまで出かけてきました。  会場はびっしり満員で、ざっと数えて千五~六百人もいたでしょうか。  私より先輩が多数と、感じましたが。・・・  44年振りの完全公開だそうです。スクリーンの中の、今は亡き…
クリスマスの記憶 |野口美代子 随想

クリスマスの記憶 |野口美代子

 小学生か中学生か定かではない記憶の一葉に、クリスマスイブに、河村先生(聖心幼稚園)に連れられて、大夕張炭砿病院の廊下で、クリスマスソングを何曲か歌いました。  静かな入院病棟に美しい(?)歌声を響かせたことがありましたっけ。  聞いた人達の感想は聞けませんでしたが。  その炭鉱病院に作家の渡辺淳一…
新型車 |内川准一 随想

新型車 |内川准一

 スバルから新型の軽自動車が出た。  興味があったので、カタログをもらってきた。  長さ3.2m、幅1.5弱、車輪の間は2.2mの小さな車だ。  小さな車が好きなので、すっかり気に入ってしまった。  夫婦2人になったらこんなのでもいいかな?(買わないけど・・)  昔、スバル360という車があった。 …
1970年のころ |  宇良田 彰 随想

1970年のころ | 宇良田 彰

 1970年(昭和45年)は、世田谷の下北沢にいました。  札幌から東京に移り、一種のカルチャーショックを受けていた時代でした。  目的が定まらず、単位を取るために学校に通う毎日でした。  目的が定まっていないということは、色々なことに手を出しては火傷をし、熱いと感じて手を元に戻すことに似ています。…
ポリオ(小児マヒ)の流行 |准 随想

ポリオ(小児マヒ)の流行 |准

 1959年に指定伝染病に指定されたポリオ(小児マヒ)は、翌1960年からは、さらに勢いを増し、全国で猛威を振るった。 北海道では5月に、夕張地区(大夕張)で大流行し、全道に広がって106名の死者を出した。  自衛隊によるDDTや石灰の散布は行なわれたが、道内45万人の幼児に対しワクチンは3万人分し…
二股峠 | 小林光志 随想

二股峠 | 小林光志

 昭和40年3月まで、夕張工業に大夕張から通学していました。  朝、7時05分?(15分?)少し高台にある大夕張駅から駅員が、いつも仁王立ちで、速く走るようにコールしていました。  いつも私は、春日町でしたが、かなり遠くからその姿を見てダッシュしていました。  駅員が怒る暇がないことをよそに、汽車に…
当時出かけた大夕張|小野田 正憲 随想

当時出かけた大夕張|小野田 正憲

 ひょっとすると、飯田氏とは、中学と高校の中間期にお会いしているかもしれません。  さて、私はご近所の清水沢出身で、昭和30年7月生まれです。  父が、南高の教師で、スキー部の顧問だった関係で、3歳の頃からスキーを履き、大夕張にもよくつれて行かれました。  あの、ロープウェイ!?が懐かしい。  夏は…
《思えば遠くへ来たもんだ》 |美佐子 随想

《思えば遠くへ来たもんだ》 |美佐子

  37年前の今日、東京に出て来ました。  大夕張 千年町の自宅前から、従兄弟の車で札幌まで送ってもらい、札幌の親戚の家に挨拶に行き、札幌から函館まで列車に乗りました。確か「ゆうづる」という列車だったと思います。  札幌駅には、おばあちゃん、叔母達、従姉妹が見送りに来てくれました。  叔母が「もうし…