月: 2022年2月

シューパロ湖畔の若者たち カラー版 2丁目3番地

シューパロ湖畔の若者たち カラー版

「ふるさと大夕張2丁目3番地」で、初めて写真のカラー化に取り組んだ。 初めは、2020年2月、ここ「2丁目3番地」を開設した時に「カラーにするとなんだか雰囲気がちょっと違う」みたいなノリで、AIで写真を自動着色してくれるサイトを見つけ、そこでどんどん変換していった。違いがおもしろくて元の白黒写真と着…
北海道人気質と大阪人気質 | 大阪の小林 随想

北海道人気質と大阪人気質 | 大阪の小林

 昭和40年の夏、南部の貯木場の休憩所で休憩していたときの話です。  営林署員の材木の体積測定のチーム2,3人と私たち学生3人とがお菓子を食べながら雑談をしていました。  そのうち、いつも我々の世話をして下さっていたFさんが、 「小林君は大阪だね」  と訊ねられました。 「はい」 と私。   「大阪…
マラソン大会(常盤町) 学び舎の思い出

マラソン大会(常盤町)

鹿島中学の卒業アルバムからの一コマ。 昭和45年(1970年)初秋。 鹿島中学前からの坂道を右手に折れ、暁橋の正面を右へ曲がり鹿島橋の方へと向かいます。ちょうどここは、暁橋の前に出てシューパロ川に沿って走っているところ。 白黒写真に着色した画像 常盤町。鹿島橋に向かって走る 鹿島中学校の通学路でもあ…
トンプク( 頓服 ) | 高橋正朝 #79 続・大夕張つれづれ

トンプク( 頓服 ) | 高橋正朝 #79

   私が、鹿島東小学校4年生のときである。  新聞の4コママンガがある社会面に、小さな記事が載った。    〘 男性が頓服で自殺未遂 〙という記事であった。      この〘 頓服 〙という漢字が読めたのは、家にあった〘 置き薬り 〙の箱の中には、必ずあったものだったからだ。  ひらがな若しくはカ…
病院の庭 楽しかった日々

病院の庭

父のアルバムから。 昭和28年頃。映っている三人は、後に結婚する父と、母。一緒に映るのは薬局の看護師の前田さん。 父は炭砿病院の薬局で、母は、病院の経理で働いていた。 宝町に住んでいた母と前田さんは、子どもの頃から仲がよく、遊んだり、習い事にも一緒に通っていたという。 私にとっても懐かしい三人の姿で…
若者たち  2丁目3番地

若者たち 

つぎは、2003年に書いた投稿から、書き出した文章です。 これまでもHP中の思い出に投稿されている小林俊治さんから 『昭和41~42年のテレビ番組』 と題して次のようなメールをいただきました。   『このころ、北海道の各炭鉱の事故をニュースで聞くたびに悪い情勢へ・・・・・高度経済成長の時代で、ふっと…
ペナン島の大夕張出身者|泊川俊徳 随想

ペナン島の大夕張出身者|泊川俊徳

昨年暮れに、スマトラ地震での津波でタイ近隣の島々が多大な被害があり、死者10万とも言われています。 昭和61年か、62年か、どちらの年だったか、夏の頃、鹿島小学校校庭で、二人の多分、65歳は過ぎていたと思われる 女性二人に話し掛けられました。 「終戦後、間もなく大夕張からペナン島に移住し暮らしていま…
富士見町6丁目から 思い出の街角

富士見町6丁目から

昭和40年頃、富士見町6丁目の山から鹿島小学校方面をみる。 清水の遊び場  富士見町6丁目は住宅のどんづまり、礦業所のすぐそばという印象がある。住んでいた家の裏手には山が迫り、小学校低学年から中学年にかけて、春夏秋冬ここが遊び場だった時がある。 この写真の真ん中、住宅と山の境目に小さな坂が見える。 …
2022年2月16日でのアクセス数 2丁目3番地

2022年2月16日でのアクセス数

 どうでもいいという話といえば、これはどうでもいい話なのですが、サイトを運営する者としての自分の記憶と記録のために書き留めておきたいと思います。    『ふるさと大夕張2丁目3番地』のアクセス数が、昨日の昼頃『1.311.036』となりました。     『ふるさと大夕張(1丁目1番地)』のカウンター…
八百五十のゲレンデ 思い出の街角

八百五十のゲレンデ

昭和30年 八百五十のゲレンデ。 白黒写真に着色した画像   八百五十  【小笠原 憲】 1998年02月27日(金)16時47分10秒 お久しぶりです。 遠い昔の記憶によると(昭和35,6年)、八百五十は鹿島小の横の沢をどんどん登っていって、更に山に登って・・というようなところでした。 鹿島小の冬…
二人用学校机 |飯田雅人 思い出ばなし

二人用学校机 |飯田雅人

 机!  鹿島小学校低学年の頃は、上から重い蓋を持ち上げて、中に道具を入れるタイプの机だった。  真っ黒で木肌がごつくて重い机。  しかも二人用ので、2人の席はしっかりつながっていた。  動かすのも、一人の力では無理で二人で一緒に動かした。    高学年の頃からか,上に蓋のついた机から、天板の下に道…
閉山の記憶 思い出の街角

閉山の記憶

昭和48年(1973年)の三菱大夕張炭鉱閉山後、春日町をはじめ、弥生町、緑町等の従業員の炭鉱住宅は取り壊された。 住宅が取り壊されていく様子は、遙かなる思い出の故郷の10分47秒のあたりから数十秒間、映像の中でも映っているが、閉山後一気に取り壊し作業は進められていったことだろう。 平成9年に鹿島小学…
たつみのひろちゃんへ|大夕張寅次郎 随想

たつみのひろちゃんへ|大夕張寅次郎

 幼き記憶の大夕張の三浦浩信さま    「たつみ」は岳富町にあったように記憶しています。  叔母さんの山田久美子さんは、東高の2期生でバレー部で活躍されていました。 とても元気で溌剌とした高校生時代のお姿を思い出しますが・・残念です。   ご冥福をお祈り致します。   叔父さんは、東高で事務のお仕事…